Devil's Own

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『J・エドガー』(クリント・イーストウッド)

"J.Edgar"2011/US

 レオナルド・ディカプリオがFBI初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーを演じる伝記映画。ダスティン・ランス・ブラック(『ミルク』)の新作でもあり、監督、脚本、俳優のそれぞれが自らの資質や経験を生かしながら最高のアンサンブルを見せてくれる。「これが映画だ」という実感が全編に横溢していて、文句なしに面白かったです。それにしてもイーストウッドの新作がこの公開規模というのは少し寂しい。確かに地味な映画ではあるのだが。本当は再見してから感想を書きたかったのだが、私の地元では公開の予定すらないのだ。イーストウッドは当初フーヴァー役にホアキン・フェニックスを希望していたのだが、ディカプリオの熱望により今回のキャスティングになったという。ディカプリオのメソッドってイーストウッドとは相性が悪いんじゃないかという懸念もあったのだが、結果としてはうまくいったとおもう。ひとりだけやたら深刻な顔をしているのがある種のユーモアになりつつあったここ最近のディカプリオの演技がフーヴァーのキャラクターにうまく合致していてこれ以上にないはまりぶりだった。
 年老いたフーヴァーが自叙伝を口述筆記させる体でその半生を振り返っていく。過去と現在を往還しながら、自伝として「演出」されたエピソードも、心の奥にひそかにしまい込まれていた記憶も、特に説明がないままに淡々と紡がれていく。この語り口がけっこう観客を混乱させるんですよね。私の前に座っていた中年男性など盛大ないびきをかいて寝ていたが、それもわからなくもないという気がする。なにしろ私たちがスクリーンで確かに見た映像が終盤になって「捏造」であったことが堂々と明かされるのだ。ブラックのシナリオは人が自己を物語化するときに必ず生じる不整合を意図して描いている。いずれにせよアスペルガー的な語り口や主人公のキャラクターから『ソーシャル・ネットワーク』の影響は容易に指摘できるだろう。アメリカ人がこの映画に好感を持たなかった理由はシナリオの不整合よりももっと別のところにあるようにおもう。
 たとえば映画館のスクリーンにフーヴァーが映し出されると観客がブーイングを送り、ジェームズ・ギャグニー主演の『民衆の敵』が始まるやいなや拍手が巻き起こるという場面がある。フーヴァーは「人々が頭脳よりも筋肉を求めるならそうなってやる」(!!!)というものすごいせりふを表明すると、派手な犯人逮捕劇を自己演出しスターダムへとのし上がる。ジェームズ・ギャグニーが演じる役もギャングからGメンへと変わり観客はフーヴァーに歓声を送るのだった。ここにはアメリカ人が「正義」よりも「暴力」を好んでいるという生々しい現実がさりげなくえぐり取られている。
 フーヴァーはアメリカの清濁をそのまま体現するような存在である。過剰なまでのマッチョ志向が母親よって植え付けられたものであり、さらにクローゼットホモセクシャルであったという「裏側」から目を背けたくなるアメリカ人もいるだろう。一方で、映画の中でアメリカの光と影についてつねに考え続けてきたイーストウッドが、こうした二面性を持つ人物に引き寄せられていったこともごく自然なことだとおもった。
 もうひとつ、この映画のすごいところはイーストウッドの作家性だけではなくダスティン・ランス・ブラックの作家性もしっかりと刻まれている点だ。『ミルク』が陽性だとすれば『J・エドガー』は陰性の映画ということができ、表裏一体の2部作といっていいくらい分かち難い映画だとおもいました。自分のセクシャリティを積極的にカミングアウトすることでつながりが生まれ、大きな力を生み出していった『ミルク』に対し、『J・エドガー』のセクシャリティはひたすら内向きで隠匿するべきものとして描かれる。秘すれば花なり、内へ内へとと秘められることで彼らの思いは狂おしいほど切なく強固な絆として見る者の心を揺さぶる。序盤の図書館と中盤のホテルの一室、そして終盤の手紙、この映画にはJ・エドガーが愛を告白する場面が3度登場する。演説や説得において卓越したスキルを持っているにもかかわらず自らの愛を伝えるとき多くの言葉を持たないフーヴァーの不器用さ、内に秘められた情熱のはげしさには胸を締め付けられる。『インビクタス』くらいからイーストウッドは死よりも愛に重きを置くようになったとおもう。『J・エドガー』は1人の男を通した裏のアメリカ史とも読めるが、それがきわめて個人的な愛の物語になっていることは感動的だ。その愛はとてもいびつで、大きく、そして深い。