Devil's Own

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『猛獣大脱走』(フランコ・E・プロスペリ)

"Wild Beasts"1984/IT

 イタリア製ゲテモノ映画に関する文章にたびたび登場するのを見かけては気になっていたフランコ・E・プロスペリの動物パニック映画が満を持して(といっていいのかわからないが)DVD化された。多くの映画館では『プロジェクトA』と同時上映されたため、ある世代には鮮烈なトラウマ映画でもあるらしいのだが、ウィリアム・ガードラーの監督作などカルトな怪作ばかり熱心にリリースしているallcinema selectionのカタログにもれず「予告編がいちばん面白い」たぐいの作品ではある。だいたいこの手のジャンル映画で『ジョーズ』に拮抗しうる作品はそうそうないとおもうのだが、そんなことは重々承知の上でやはり手が伸びてしまうのだな。自分でもどうして動物パニックというジャンルに惹かれるのかよくわからない。ちなみ『ピラニア』(魚類)や『スクワーム』(ゴカイ類)を意識して「生物パニック」という呼称を用いる人も多いが、私はその中でも地上を生活圏とする四足歩行動物(特にほ乳類)が暴れる作品を特に偏愛しているので「動物パニック」という呼称を好んで使っている。
 『猛獣大脱走』ではある原因で一様に凶暴化してしまった動物たちが人々を蹂躙する。下水道から大量発生したドブネズミがカーセックスに興じる若い男女を食い殺し、動物園から脱走したゾウが人々を踏みつぶしていく。地下鉄にはトラが!学校にはシロクマが!未見の人は読んでるだけで面白そうでしょ。スピルバーグはバンクフィルムのカットバックと半身のレプリカだけでも見せ方しだいで恐怖心をあおると証明した。その方法論で「見せない」ことが重要視されていることは明らかだが、『猛獣大脱走』では本物の動物たちがあからさまに人間たちと共演し、景気よく画面に登場する。じっさい空港に迷い込んだゾウの群れや自動車を追い掛けるチーターの姿は恐怖心よりも先に失笑を引き起こしてしまうのだが、見慣れた風景を悠々と闊歩する大型動物たちの異物感にいい知れない魅力があることも確かだ。しかし何よりこの映画が他の動物パニック映画と一線を画すのは、ヤコペッティと共に一連のモンド映画を手掛けてきたプロスペリならではの露悪的な残酷表現だろう。動物園の飼育係が、肉食動物の餌として馬の頭部(!)を黙々と真っ二つに切断していく…このオープニングからして既にどうかしてる。先述したドブネズミに食い殺されるカップルの執拗さどうだ。あれだけしつこく時間をかけて殺される様子を見せつけたにもかかわらず、救急車に運び込まれた死体の顔を再度大写しにする徹底ぶり。その後、ドブネズミたちは火炎放射器で無残に焼き殺されていく場面もすごい。火だるまになったネズミが悲鳴を上げながら路上を逃げ回るのだ・・・ひどい!人間め!この映画はよくわからないうちに事態が収束し、断ち切られるように唐突な終わりを迎える。いったいこのやる気のなさはどうしたことかともおもうのだが、もっともらしい「あとがき」を付け加えて締めくくるあたりにプロスペリのどうしようもないほら吹きぶりが表れていて憎めない。
 特典映像にはプロスペリのインタビューまで収録されていて、撮影の裏話がとにかくおもしろい。地下鉄のシーンを撮影中、トラがパニックになり駅から駅へ逃げ回り、追い詰めてもスタッフの頭を飛び越してさらに逃げ、挙句の果てには電車の屋根に上って下りてこなくなってしまったので「相棒」の犬に説得してもらったという、いやそれうそでしょ!みたいな話が次々と飛び出す。プロスペリは途方もないウソをもっともらしく語ることに腐心するあまり、自分でも何がウソで何がホントなのかわからないところまで来てしまったのか。はたまたうそみたいな真実を引き寄せてしまうのか。いずれにしてもヤコペッティの一連の映画を目にしたときと同じように、途方もないほら話が真実か否かという疑問は瑣末なものでしかなくなってしまうのだった。