Devil's Own

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『ダークナイト ライジング』(クリストファー・ノーラン)

"The Dark Knight Rises"2012/US

ノーラン版「バットマン」の完結編。このブログでさんざん『ダークナイト』過大評価論をぶち上げておきながら、会社を休んでまで先行上映に駆けつけ2回連続見てしまったという。こういうのをツンデレというのか。映画の評判に関しては私の見る限りでは、否定的な意見が多めといったところだろうか。『インセプション』のときもこんな感じだったように記憶している。一応、私のシリーズに対する考えを示しておくと1作目はちょっと退屈、2作目は面白いけど不完全燃焼という感じで、個人的には今作が一番よかった。ノーランのフィルモグラフィの中でも群を抜いて好きな作品になった。
 『ダークナイト』はいい意味でも悪い意味でもジョーカー(ヒース・レジャー)ありきで評価を得た映画だとおもう。犯罪映画としては一級品だが、バットマンの物語として見たときにはどうか。市川森一が書いたゼラン星人や異次元人ヤプールの暗黒を見て育った私にとって、ジョーカーの犯罪哲学はさほど新しいものではなかったし、堂々と対峙できないバットマンにもやはり覚悟が足りない、とおもっていた。この問題に関しては『ダーティハリー』が引き合いに出されることが多いが、まさにその通りだとおもう。そのわりにやたらと「アメコミヒーロー映画の枠を超えた」という称揚のされ方をしているのもちょっと不満だった。『ライジング』でも悪の描き方が徹底されていると言い難いが、私の見たかったバットマン映画にはなっていた。
 なるほど確かに『ダークナイト』の随所に光っていたそれまでのノワール映画と一線を画すような艶かしい質感は『ライジング』では見られない。高解像度の空撮でシカゴの街並みが映し出されたときのあの高揚感。これから新しい映像体験が始まるのだと一瞬で観客に感じさせるような圧倒的なショットには乏しい(われわれがこの数年間で『ダークナイト』を何度も見まくったことも原因だろうが)。冒頭の銀行強盗シーンや空転するトレーラーなどのクールさに比べ、『ライジング』のスペクタクルシーンはどれも大味でいかにも「ハリウッド映画」という印象だ。本作のアウトラインに『メトロポリス』(フリッツ・ラング)を参照しているようだが、どことなくドイツ時代のラングを思わせる「大作感」があるんですよね。しかし、こうした点は私にとってむしろこの映画を愛する理由になってしまう。ヒーローとしてのバットマンの物語を、ノーランらしからぬ衒いのなさで完結させた点を支持したいからだ。『インセプション』くらいから漏れ出ていたノーランの中学生マインドが『ライジング』ではいい方向に働いてくれたとおもう。

 以下ネタバレライジング。ノーランの映画の欠点として毎回のように挙げられるのが「アクション」と「女」の撮り方だとおもうが、今回この2点に関しては飛躍的に進歩したとおもいました。だいたい映画監督で「アクション」と「女」の撮り方がダメってもう致命的なんじゃないのかという気がするのだが、本当にへたくそだったからなあ。今回は冒頭の見せ場である飛行機のシーケンスからしてすばらしい。ノーランの007オタクぶりが全開のわくわくするような活劇場面に仕上がったとおもう。これまでのノーランだったらずたずた編集とぶれぶれカメラでわけわからない感じになってたのではないか。ベイン(トム・ハーディ)がカメラに向かってどすんと落ちてくる場面も単に画的にかっこいいだけではなく、観客に上下関係を伝えるうまい処理だったとおもう。このあたりは『インセプション』でのあのすばらしい無重力アクションシーンの学習が生かされているのだろうか。勤勉なんだよノーラン君は。バーでアン・ハサウェイが展開する銃撃戦も、下水道でのバットマンとベインの近距離戦も被写体との距離が十分にとられているし、カット割りも的確で申し分ない出来。カーチェイスや空中戦も的確な処理がされていて見やすかった。

 「女」に関しては今回、アン・ハサウェイマリオン・コティヤールをヒロインに配したがどちらもどちらも色っぽく撮られていたとおもう。あんなに女性に興味がなかったノーランはどこにいったのか。『インセプション』の打ち上げで風俗にでも行ったのだろうか。コティヤールは『インセプション』では単なるめんどくさいメンヘラ女だったが、今回は正体を現わすまでの前半が特に美しかった。クリスチャン・ベールとのキスシーンで髪がぬれてたり、電気が止められたりといった細かい演出もノーランにしては気が利きすぎてる。後半はやっぱりめんどくさいキャラクターになってしまっていたが。特筆すべきはやはりハサウェイの足だろうか。アン・ハサウェイの可愛さすらもノーランはスポイルしてしまいかねないと当初は心配したが、杞憂だった。キャットウーマン最高!序盤で部屋の窓から抜け出すときの脚線美!アクションにもふんだんに足技が盛り込まれていて好感が持てた。蹴られたい。バットポッドで駆け抜ける姿も素直にかっこいい。あとバットポッドのキャノン砲で封鎖された道路を開通させたときの表情もよかった。女の子のああいう表情、これまでのノーランの映画の中になかったからなあ。

 『ライジング』の欠点として悪役であるベイン一派の行動原理が不明瞭だとよく指摘されているが、私はそこまで気にならなかった。ジョーカーよりベインのほうが好き。かっこいいし優しいもん。
 ジョーカーはそもそも混沌を体現する存在だったから行動に整合性がなくても問題はないし、だからこそ恐怖感があった。しかし、ベインは冒頭で「計画が大事」とまで言ってしまっているしはっきりとイデオロギーを持って行動しているように見える。そのわりにはずいぶんのんびりしてるとも確かに思う。彼らの行動に関しては2作目で執事のアルフレド(マイケル・ケイン)が披露した盗賊のたとえ話がヒントになるかもしれない。アルフレドは宝石を略奪してはすぐに投げ捨ててしまう盗賊のエピソードを引き合いに出してジョーカーの恐ろしさをウェインに説く。結末をウェインが質問するとアルフレドは「村を焼き払った」と答えるのだった。ベイン一派の行動はおそらくこの「村を焼き払う」行為に相当する。ジョーカーが振りまいた混沌はハービー・デントという偽りの法律によって抑えられていた。ベインらの目的はその虚飾を暴き、混沌を引き出した上ですべてを灰にするということなのではないか。終盤、ベインはマリオン・コティヤール演じるミランダの忠誠心から行動していることが明らかになる。トム・ハーディはマスクで顔半分が隠れているにも関わらずかなりの名演を見せている。ではミランダの目的はというと、ラーズ・アル・グールの遺志を継ぎゴッサムを滅ぼすことだった。要するに3作目のヴィランラーズ・アル・グールの遺志で行動するいわば操り人形だったということだ。私はちょっと切なくなってしまったのだった。にしても時間が迫っているのにミランダの断末魔のつぶやきをゴードンとバットマンキャットウーマンがぼーって聞いてる図にはちょっと笑ってしまったが。あれ何?ギャグなのかな。

 私が一番驚いたのは『ダークナイト』であれだけ悩んでいた「不殺生」のルールがなし崩し的に破られてしまったことだ。バットマンが信頼を置くキャットウーマンもブレイク刑事(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)も人を殺してしまっているんですよね。いや、いいんだよ悪党なんてぶっ殺せば。ただ殺す殺さないの苦悩に2時間以上も付き合わされてきた我々はなんだったんだっていう気持ちもある。ブレイク刑事がバッジを捨てる場面はおそらく『ダーティハリー』への目配せだろう。孤独を貫いていたバットマンがこの二人に心を開くプロセスももう少し丹念に描いてくれたら展開も納得もできたとおもうし、「ヒーローはすべての人の中に」というせりふも生きてきたとおもうのだが。でもいいのだ。とにかく私がいちばん見たかったのは、人々がバットマンを見上げて「バットマンだっ!」ってさけぶ場面。ダークナイトホワイトナイトになる瞬間だったのだから。終盤、バットマンにブレイク刑事が「ありがとう」っていう場面からじわじわと目頭が熱くなってきていて、ゴードンに別れを告げるところで涙腺が決壊してしまうのだった。ゴードンこそがウェインにとってヒーローであり、バットマンを突き動かす正義だった。罪悪感に悩んでいたゴードンのかつてのふるまいが、一人の少年の心を勇気付け、ゴッサムを守る男にした。その男の行動がやはり孤独だった少年を勇気付け、警察官にした。その警察官は今、子どもたちを励ましている。こうした「正義の継承」のテーマにはかなりこみあげてくるものがあった。ここにきてベイン、ミランダ、ラーズ・アル・グール側の「負の継承」との対比も浮かび上がってくる。
ジョーカーがなぜあんなに魅力的だったかといえば、真実を言っていたからだとおもう。あれが本当は真実なんだとおもうよ。でも、愚直に正義を信じる心はやはり報われなくてはならない。そんなストレートな結論にノーランがちゃんと落としてくれたこと、私はえらいとおもう。『ダークナイト』を見ると「ぼく、しょうらいジョーカーになる」ってなっちゃうけど『ライジング』はちゃんと「しょうらいバットマンになる」って思える映画だった。そこが何より美点ではないだろうか。