Devil's Own

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『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之、宮本幸裕)

 ちまたでは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の興奮冷めやらぬといったところですが、私の街には都内から少し遅れ『劇場版まどか☆マギカ』も上陸。市内の2大シネコンが『ヱヴァ』と『まど☆マギ』でしのぎを削っているのだった。テレビシリーズを集中的に見たときに一度書いたが、自分の中ではいまいち咀嚼しきれていないと感じていたのでこの機会に見てきました。結論から言うと今回劇場版2作を見たことでようやく私も『まどか☆マギカ』が傑作だと確信した。初めテレビシリーズのダイジェストと聞いたときはどうなのかなとは思ったが、要点が整理されていて初見では消化しきれなかった点も理解できた。これなら一見さんも問題ないとおもうし、テレビシリーズを一度見た観客ならさらに楽しめるとおもう。さすがにソフトで繰り返し見まくっている人は新鮮味がないかもしれないが、細かい修正箇所がいくつもあるそうなのでじゅうぶん満足できるだろう。たとえば魔法少女一人ひとりの変身シーンはおそらくテレビ版ではなかったとおもう。これにより『プリキュア』に代表される一般的な魔法少女ものとの対比がより鮮明になったのではないか。

『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[前編]始まりの物語』(新房昭之、宮本幸裕)

"Puella Magi Madoka Magica the Movie Part I:Bigining"2012/JP

 劇場版では全12話のうち1〜8話を前編、9〜12話を後編にまとめている。個人的には一見アンバランスに見えるこの時間配分が物語の経済に大きく貢献したとおもう。テレビシリーズは終盤3話のカロリーが異常に高いんですよね。だから1〜8話を同じ長さに圧縮して初めて残る4話とつりあったような気がする。いうなれば前編はルール説明。たったひとつの願いと引き換えに魔法少女になった少女たちが背負う過酷な運命、魔法少女を作り出すキュゥべえの本性が暴かれるまでを描いている。
 『まどか☆マギカ』の真骨頂は思春期の少女特有の精神性を描く手つきにあることは以前にも書いた。親友が自分よりも先に知らない世界に飛び込んでしまう。焦りも感じるが、何かを失ってしまうことが怖くて踏み出せない。魔法少女ものというジャンルの枠組みの中で、誰もが体験するイニシエーションの痛みをこの上ないほど冷酷に、生々しく抉り取ったからこそ、このアニメは多くの人々の心をつかんだ。少女たちのイニシエーションにもいろいろあるとおもうが、私はこのアニメの場合やはり性体験のメタファーを色濃く感じてしまう。最も顕著なのは、思いを寄せる少年のために魔法少女になった美樹さやかの存在だろう。魔法少女になる契約を結んだ少女は魂をソウルジェムという宝石に変えられてしまう。そのことを知ったさやかは「こんな身体で抱きしめてなんて言えない、キスしてなんて言えない」とむせび泣く。まるで自分の身体がひどく穢れてしまったかのようだ。実際さやかの「本体」であるソウルジェムは魔法を使うたびに黒く濁っていくのだ。そして彼女は、女を所有物のように扱う若い男たちの軽口を聞いてついにダークサイドに堕ちてしまうのだった…。シリーズでも特に悲劇的なさやかのエピソードには、「たけくらべ」、「にごりえ」など樋口一葉作品に通じるメロドラマ性がある。男性社会の欲望に押しつぶされる女たちの行き場のない哀しみや絶望が作品の背後にあることは言うまでもない。「他人のためだけに魔法を使うこと」を「他人の欲望のためにセックスすること」のメタファーだと仮定すれば、さやかが精神と肉体を滅ぼしていったのも納得できる。一方で「この力は自分のためだけに使い切る」という佐倉杏子は、自分の欲望のためにセックスする女性像といえるのか。『まどか☆マギカ』の世界観は一見すると女性優位社会(家事もパパがやっている)に見えるがその実、非常に男性優位的な原理で支配されている。こうした世界において杏子の生き方は有効なサバイバル術ともいえるかもしれない。このたとえを応用するならキュゥべえは「性搾取はこの社会をうまく回していくための必要悪だよ」と正当化する売春宿の元締めといったところか。
 別にセックスや男女関係で説明せずともいい。『まどか☆マギカ』における「契約」は人間が大人になり社会で生きていくうえでの道徳的な「処女喪失」つまり「イノセンスの消失」と言い換えることもできる。私たちは大人になるにつれて、悪意やウソを引き受けていかなくてはいけない。他者の恨みを引き取ることもある、自分の呪いを認めなくちゃいけないときもある。そうした醜いエゴイズムを引きずりながら(まどかの母親の言葉を借りるなら「どこかで間違いながら」)私たちは生きていく。魔法少女になるということは、そうした醜い自分を引き受けることといえる。そんな社会においてはより善く生きようとするさやかのような人間は確かに絶望するしかないかもしれない。

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [後編]永遠の物語』(新房昭之、宮本幸裕)

"Puella Magi Madoka Magica the Movie Part II:Eternal"2012/JP

 絶望的な世界の中でまどかがどのような決断をするのか。これが物語最大の見所であり、論争の的でもあった。私は当初、まどかの選択でかなり混乱してしまって、そのせいで作品に対する自分の評価を決められなくなってしまいました。だっていきなり卑弥呼とかジャンヌダルクとか出てくるんだもん。スケールでかすぎでついていけないよ!と。後編でもうひとつの鍵となるのは謎めいたキャラクター暁美ほむらの過去だ。簡単に説明するとほむらは「まどかが魔法少女にならなくて済む未来」を求めて1ヶ月間を繰り返し続けているという。SFとしては比較的使い古された手法ではあるが、ほむらとまどかと過ごした時間がどんどん「ずれて」いく切なさ、ほむらの時間反復がまどかの魔法少女としての資質を強めてしまうというジレンマなど容赦のないシナリオが秀逸だ。第1話のまどかとほむらの会話を反復する伏線の妙やオープニングテーマをラストに持ってくる構成など演出も神懸かっていて、第10話はシリーズ屈指の傑作になっている。劇場版でほとんどカットせずに構成したのは大正解。
 さて最終話におけるまどかの選択です。ついに魔法少女になることを決意したまどかの願いは「すべての魔女を、生まれる前に消し去りたい!すべての宇宙、過去と未来の魔女をこの手ですべて!」という途方もないもの。巴マミさんの説明を借りるなら「魔女を消し去る概念になる」ということらしい。概念って…よくそんなこと思いつくよね。私が初見時に一番引っかかったのはまどかのような受動的で引っ込み思案な女の子が、唐突にあんな壮大な悟りの境地に至れるものなのかという点である。ふつうの女の子が「概念」になる決心とはいかほどのものなのか正直想像もつかなかった。そこまでしなくてももっといろいろと方法はあったんじゃないかと。でも今回の劇場版で要点を整理しながらあらためて再見して、まどかの願いはキャラクターや心情を踏まえて導かれた必然的なものだとよくわかりました。第3話でまどかは巴マミに「魔法少女になって誰かの役に立てたら、それで私の願いは叶ってしまう」と打ち明けている。直後マミはまどかの目の前で魔女に惨殺されてしまう。これを皮切りにまどかは、魔法少女が引き受けなくてはならないあまりに大きな代償を次々と目の当たりにする。これはまどかにとって「誰かのために役に立つこと」がいかに過酷で報われない行為であるかの確認作業ともいえるだろう。さらにさやかが魔女化したことにより、利他的な願いの存在じたいが失われてしまう。要するにキュゥべえが提示する魔法少女のシステムにおいて「誰かの役に立つ」というまどかの願いはそもそも実現不可能だったのだ。だからまどかは「誰かのための願いが報われる世界」を願うことで自分の願いをも成就させる。スケールに変化はあるけど、まどかの願いじたいは実はあまり変わっていなかったといえる。さらにまどかは時空を超える存在となることで「ずれて」しまったほむらとの時間を解消し、ほむらを救うこともできた。まさにキュゥべえ側の原理を出し抜いたウルトラCの大逆転といえるわけです。
 さきほど『まどか☆マギカ』における「契約」はイノセンスの消失と書いた。私たちが大人になる上で「善く生きる」ことを諦めたり、手を汚したりしなくてはいけない局面がある…冷たい現実主義やニヒリズムに負ける瞬間。個人のやさしさやいたわりの心は多くの場合無残に押しつぶされていく。だからこそキュゥべえエントロピーを例に非常に全体主義的で効率的な生き方を推奨します。キュゥべえはいわばニヒリズムの権化ですね。これに対して、まどかは「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます」と対抗する。あまりに理想論的で純粋すぎるけど、これは最終話のまどかだからこそ言える言葉ではないか。そしてこうしたメッセージが奇しくも3・11直後にテレビアニメで発信された意義は大きい。そのことも私は『まどか☆マギカ』が時代に支持される作品になった大きな要因だとおもう。さらに感心したのは、この物語がキュゥべえというニヒリズムとすら共生する可能性を提示して見せた点です。ささいなことのようでやはり大きい。まどかは存在自体が消えてしまったが、それでも何人かは「覚えている」という展開もベタながら泣けた。初見時の感想で私は脚本家の虚淵玄を「かなりのサディスト」と書いた。その印象はいまでも変わらないが同時に彼はかなりのロマンチストでもあるとおもう。でなければこんな結末は書けなかっただろう。

その他

 劇場版2部作の動員数が堅調だったのか、来年は『新編 叛逆の物語』という完全新作の上映が決まっている。この作品はもしかしたらヒットを飛ばすかもしれませんね。シャフトは今年、西尾維新の『傷物語』を長編アニメ化するプロジェクトがあったはずだが『まどか☆マギカ』の新作が先になりそう。
 『まどか☆マギカ』の大きな魅力のひとつが劇団イヌカレーが手がけた異空間のビジュアル設計。ヤン・シュヴァンクマイエルを思わせるコラージュ映像の不気味で悪夢的なデザインを劇場で見るとさらに怖くて迫力がありました。

参考

2011年魔法の旅?『魔法少女まどか☆マギカ』 - くりごはんが嫌い
「魔法少女まどか☆マギカ 前編 始まりの物語」 / 「魔法少女まどか☆マギカ 後編 永遠の物語」見たよ - 子持ちししゃもといっしょ
 『2001年宇宙の旅』の影響は私も感じましたが、最も連想した作品は以下の2本です。

エンジェル ウォーズ Blu-ray & DVDセット

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時をかける少女  ブルーレイ [Blu-ray]

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 『まどか☆マギカ』が男性原理に搾取され、身も心もすり減らしていく少女たちの物語だとすれば、『エンジェル ウォーズ』はかなり近い世界観を持っている。あの物語も美少女たちが性的に搾取されていて、性を武器に戦わざるを得ない過酷な現実を隠蔽しながら物語を進めていく構造をとっていましたから。
 ほむらのエピソードの語り口だけを見れば『ミッション:8ミニッツ』や『バタフライ・エフェクト』『恋はデジャ・ブ』など類似作品は枚挙にいとまがないが、記憶、愛、そして第2次性徴のメタファーなどの点で最も似通っているのは大林版『時をかける少女』だろう。もちろんこのほかにもさまざまな作品からの影響が指摘できるとおもう。そもそも東映アニメの「魔法少女もの」というジャンルの系譜なしには成立しえなかった作品だ。決して新しくはない個々の要素を貪欲に取り込み、つなぎ合わせることで新しい作品に仕上げた。日本のサブカルチャー土壌の豊かさとクリエイターの技量の高さが理想のかたちで結実した傑作だとおもいます。新作が楽しみです。