Devil's Own

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『横道世之介』(沖田修一)

"Yokomichi Yonosuke"2013/JP

 アカデミー賞レース作品の公開ラッシュのさなか、日本映画の傑作がひっそりと公開されている。一部の映画ファンですでに注目を集めている沖田修一監督の最新作。これまでより公開規模も大きいこの作品で誰もが無視できない才能として知られることを期待します。
 まず吉田修一氏の原作がすごい。大学進学のため長崎から上京した平々凡々な青年、横道世之介の1年間を淡々とつづったもの。吉田氏は、2009年4月1日から翌年3月31日という期間で連載依頼を受け、「最も劇的な一年を描こう」と大学生活最初の一年間を選んだという。つまり連載当時の読者は毎朝『横道世之介』を読むことで、文字通り「世之介と同じ一年間」を過ごすことができた、というわけだ。さらに春夏秋冬の季節ごとに、世之介と関わりを持った4人の登場人物のその後も描かれる。何の脈絡もなく文体が変わって困惑するが、読み進めていくうちに「あ、これあの人だ」とわかる構成になっている。新聞連載というメディアを最大限に活用した巧みなプロットとストーリーテリングにうならされる傑作です。そんな作品を沖田修一監督が映画化する、と聞いた時点でなんとなく「勝ったな」と感じていた。沖田監督の、とりわけ同性同士の会話劇に宿る独特のおかしみが原作の持ち味にぴったりはまるとおもったからだ。果たして予想は的中した。
 『横道世之介』は人間賛歌の物語である。吉田氏は『悪人』をはじめ、人間の生々しい悪意を描くとき卓抜した資質を発揮するが、ここでは一人ひとりの人物をユーモラスに愛情たっぷりに描くことに腐心している。平凡な人々の平凡な日々、ありきたりな人々の営みが何物にも代えがたい輝きを放つ。何げないやりとりからにじみ出る人情と機微が、誰の人生にも美しく気高い瞬間があると教えてくれる。読んだ後、世之介が、祥子が、倉持が、加藤が、本当にいるとしか思えない。彼らのことを昔から知っているような気がしてくる。ついつい「この間、世之介がさあ・・・」なんて口にしてしまうかもしれない。
 そんな愛すべき登場人物たちに高良健吾吉高由里子を始めとする俳優たちが命を吹き込んだ。沖田監督は彼らのありきたりな、だからこそかけがえのないやりとりを的確なショットで真空パックしてみせる。相変わらずカットが長くゆったりしているのに、新宿駅の人混みの中に世之介(いかにもあか抜けない高良くんのたたずまい!)が登場した瞬間から映画はいっときも弛緩することはない。むしろ映画内の時間の流れに観客が自然と巻き込まれていく。見ているうちに呼吸や体温が自然と「沖田基準」に合わさっていくんですよね。『横道世之介』に限らず、沖田作品共通の魅力だとおもう。
 近藤龍人の撮影もいつもながらすばらしい。ここのところ藤井勇(照明)とのコンビネーションで『マイ・バック・ページ』、『桐島、部活やめるってよ』など傑作をものにしていますが、本作はベストワークかもしれない。クリスマスのキスシーンやラストの長回しは身もだえするような多幸感だ。そして、35ミリフィルムの質感が泣ける。もう二度と戻ってこない青春の光景ともう二度と見ることができなくなる35ミリフィルムの映像がこれ以上にないくらいマッチしてしまって、「ああ、今、映画を見てる」っていう幸せと、この幸せをいつか忘れてしまう切なさで胸がいっぱいになる。私はこの平凡な幸せを、いったいいくつ忘れてしまうのか。これまでに出会った世之介たちを、これから出会う世之介たちを私はきっと忘れてしまう。思い出すことのできない誰かに会うために、この映画を何度も見返すだろう。
最後に、この映画の公式HPに載っていたみのもんたのコメントを紹介します。

この映画、すべての国会議員に観てもらいたいな。
日本の政治が変わるかもしれない。だって当たり前のことが、
ある日突然、当たり前でなくなったら、どうしたらいいんだろう。
生きるって、生きていることって、何なんだろう。
結構、爽やかな余韻が残る映画だ。

えっと、
それ何の映画ですか?