Devil's Own

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『リアル〜完全なる首長竜の日〜』(黒沢清)

"Real"2013/JP

 ミスチルの主題歌が流れる予告編を見るたびに「本当に黒沢清の新作なのか」と半信半疑だった。しかも予告編を見る限りすごいつまんなそうだったし「綾瀬はるかさんの壊滅的なフィルモグラフィーを前に黒沢清も敗北してしまうのか」なんてなめたツイートまでして…お恥ずかしい。予告編に踊らされていたのは私なのだった。ふたを開けて見れば、どこを切ってもまぎれもなく黒沢清の映画だったのに。間に『贖罪』という驚異のテレビシリーズを挟んだとはいえ、劇場公開新作としては『トウキョウソナタ』以来5年ぶりである。5年の間、私は社会人になり転職し、恋人まで変わった。いったい日本の映画界は何をしていたのか。
 自殺をはかり昏睡状態に陥った恋人を救うため、主人公の青年は最新医療で彼女の意識に入り込む。一見ロマンチックな行為のようだが、そもそも恋人の頭の中に入り込むというのがどうかしている。原作では姉弟らしいのだが恋人どうしへの改変により、黒沢清の資質と親和性を増したのではないか。ものすごく親密な他人と意識を混ぜ合わせるなんて考えるとぞっとする。どこまでが現実でどこからが意識なのか。どこまでが自分でどこからが他人の意識なのか。前半部は「胡蝶の夢」のごとく不安定な世界が展開し、怪奇映画の魅惑に満ちている。黒いごみ袋、ひとりでに開くロッカー、スクリーンプロセス、銃殺、朽ち果てた自動車、どこからか吹いてくる風、落下する綾瀬はるかなど、娯楽映画の中にふんだんに詰め込まれた作家の意匠にうれしくなる。悪夢的なビジョンは主人公たちのあるトラウマに根差していて、その発動装置ともなる「水」の描写は相変わらず冴えている。その一方で新しい恐怖表現にもしっかり挑戦してもいる。前に「呪いのビデオはこわいけど、呪いのDVDはあまり怖くない。幽霊はアナログと親和性がある」というようなツイートを見かけて、妙に納得した覚えがあるけど、『リアル』はデジタル幽霊(といっていいのかわからないが)の嚆矢となるかもしれない。意識を勝手にさまようフィロソフィカルゾンビはどこか自立プログラムっぽい不気味さがある。ずぶぬれの少年が登場が登場したとき、ヒッチコック映画のようにガッ、ガッとカットインする場面があるが、カメラを近づけるのではなく画像そのものを拡大する方式を採っている。荒れた画像がなんともまがまがしい。
 とはいえ本当の新境地は手慣れたホラー映画から怪獣映画に大きく舵を切る後半部だろう。首長竜は予告編にも登場していたのでそう驚きはしなかったし、むしろ苦笑していたふしがあったが、実際にスクリーンに登場するとけっこうぎょっとするんですよね。特に港で姿を現すシーンはすばらしい。あのスケール感、重量感、何を考えているかわからない目、聞いた事もない不快なうなり声…すばらしすぎる。映画の中の怪獣に驚き、恐怖したのは何年ぶりだろう。小学1年生のとき劇場で『ジュラシック・パーク』を見て息を殺したときのことを思い出し、胸が熱くなった。
 それにしても黒沢清映画にあって綾瀬はるかがあんなに浮き立つとは思わなかった。顔面から、肉体(おっぱい)からただならぬ生のオーラを放ってるんですよ。黒沢清という死に神が持ちうる魔力(映画的なテクニック)のすべてを投じても、とうてい封じ込めることができない綾瀬さんの天真らんまんぶり。終盤になると黒沢監督も開き直って、それをドラマの推進力に利用すらしてしまう。なにしろ重要な展開のほとんどを「綾瀬はるかの説得力」で押し通してしまうのだ。ドクターも首長竜も2回も説得しちゃうからね。「お願いします!」「…よし、わかった」みたいな感じで。無敵すぎるじゃないかと。「黒沢清綾瀬はるかに敗北してしまうのか」という当初の見立てはある意味正しかったのかなと勝手におもうことにします。