Devil's Own

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『華麗なるギャツビー』(バズ・ラーマン)

"The Great Gatsby"2013/US

 『グレート・ギャツビー』(読んだときは『華麗なるギャツビー』という邦題だったとおもう)を初めて読んだのは中学生のころだったか、私はしばらくこのおろかで、みじめで、誇り高い男の人生についてかなりの時間思いをめぐらせた。そのうち当時のアメリカの状況やフィッツジェラルドの人生についても知り、どうして『グレート・ギャツビー』がアメリカ人にとって特別な作品になったのかも理解できるようになった。ただ、輝かしい20年代のアメリカからはおよそ懸け離れた時代と場所に住む鬱屈した中学生の心にまでなぜ響いたのかはよくわからなかった。実は今もよく分かりません。
そんな名作をバズ・ラーマンが監督するという。豪華絢爛なパーティーシーンを映した予告編を初めて見たときは不安を覚えましたが、ラーマンは意外にも『グレート・ギャツビー』の物語や自身の資質に耽溺することなく冷静かつ効果的にストーリーを映像化していたとおもう。おそらくバジェットの多くが割かれたであろうゴージャスで享楽的なパーティーがギャツビーの、さらにいえば20年代アメリカ人の批評にもなっています。
 ディカプリオのちょっと過剰すぎるくらいに劇画化されたギャツビーの造形が圧倒的に正しい。ギャツビーとはいったいどんな人物なのか。さんざん引っ張った挙句ついに画面に登場するとき、パーティーの狂騒もピークを迎える。勇壮に響く「ラプソディ・イン・ブルー」と花火をバックに満面の笑みを浮かべるディカプリオに大爆笑。ラーマンのトゥーマッチな演出とギャツビーの虚飾性が絶妙に合致した名場面といえる。デイジーとの初めてのお茶会で挙動不審になってしまう場面のおかしさはどうだろう。これまで映画化された『グレート・ギャツビー』のすべてを見たわけではないが、彼の愛すべき滑稽さをここまで効果的に描いたのはおそらく初めてだろう。あのシーンで観客は一気にギャツビーを好きになれますよね。
 キャリー・マリガン演じるデイジーが原作ほど軽薄には描かれていないのもよかった。原作ではとんでもないクズ女ですからね。今回の映画版は「悪意はないけどなんとなく主体性のない女」として描くことでリアリティを獲得できたとおもうし、セレブリティ=悪という単純化をうまく回避したのではないか。ああいう女性はいるし、一方的に責めるわけにもいかないですよね。そのぶんセレブリティの悪い面を一人で引き受けたトム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)もよかった。
 さて小説『グレート・ギャツビー』の終章は、世界でもっとも美しい英文のひとつといわれる。確かにそんなに英語ができるわけでもない私でも、『ギャツビー』の終章とポーの詩くらいは美しいとわかります。現在比較的入手しやすい『ギャツビー』の翻訳は4種類あるが、結局どれも原文の美しさに届かないとおもっている。ラーマンは有名な終章をほぼそのままニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)に朗読させ、画面に文字すら登場させる。これには驚きました。名文に対する潔い敗北宣言。これでいいのか、ともおもう。しかしラーマンはラストで映画ならではの見せ場を用意してもいる。私たちはあの場面でギャツビーが孤独ではなかったと知ることができるのだ。