Devil's Own

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『惡の華』(長濱博史)

"The Flower of Evil"2013/JP

久々に毎週見はまってしまったテレビアニメ『惡の華』が最終回を迎えた。ほとんど無理やり「終わらせた」といってしまっていい。第二部は作られるのか。作られるとすればどのような形なのか。最後の最後までやきもきさせられっぱなしだったが、さまざまなトピックを提示してくれた「問題作」ということは間違いないとおもう。ちなみに原作は2年ほど前に1巻だけ読んだきり、なんとなく続刊を買わずにそのままだった。1巻が面白かった記憶があったのでアニメを見始めたわけだけど、結果としてはかえって作品を楽しめた、と思っている。
 『惡の華』は実撮映像をトレースしアニメーション化するロトスコープ技法が用いられている。『白雪姫』でも使用された伝統的な技法で最近では『スキャナー・ダークリー』も記憶に新しいのだが、なんでも日本のテレビアニメで全編ロトスコープ製作は初めてという。ちょっと意外だった。セル画やコマ撮りアニメとちがう、ぬるぬるとした動きが特徴で、本当なら一番「リアル」なはずなのに独特の居心地の悪さがある。登場人物たちも実際に俳優が演じたものをアニメ化するので当然、キャラクター造形が根本から変わってくる。原作とのあまりの違いから初回放映時はネットのあちこちで賛否が巻き起こっていました。それにしても興味深かったのは、こうした言説の多くが作品そのものへの批評というより「サブカル厨VS萌えヲタ」の二項対立を打ち出すポジショントークになっていた点です。たとえば否定派は「アーティスト気取り監督のオナニー作品!こんなのほめてるやつは斜に構えたサブカル気取り」、肯定派は「キャラ萌えに淫してストーリーやテーマを語る気もない現代アニメと萌え豚どもへの痛快な一撃!」みたいな感じで、どちらも仮想敵を攻撃しているだけのような印象でした。私はというと、1巻だけは読んでいたので初めは戸惑いましたね。本当にロトスコープが最適な表現方法だったのか。ここまでやるのであれば初めから実写でもよかったのではないかなどとも思いました。第1話はほとんどストーリーが進まず、率直に言って「つまらなかった」というのもある。もっとも、この「つまらなさ」も全編通すととても意味のあることだったのだが。とりあえず判断を保留して2話、3話と見進めるうちに、どんどんのめりこんでいったという感じです。
 文学好きでボードレールに心酔する中学2年生春日高男はほんの出来心から憧れのクラスメイト佐伯奈々子の体操着を盗んでしまう。罪の意識にさいなまれる春日の前に、その現場を見たというクラスメイト仲村佐和が現れある「契約」を持ちかける。一方、ふとしたきっかけで春日は佐伯とも接近。春日は佐伯への罪の意識と仲村との異様かつ濃密な関係の中で引き裂かれ、苛烈な「自分探し/殺し」に足を踏み入れていく。郊外の閉塞した学校生活を背景に異常な三角関係が展開していく…というのが簡単なあらすじである。思春期特有の自意識と承認欲求、絶望的な孤独のひりひりとした痛みが物語の大きな魅力だ。身もだえし、目を背けたくなるような居心地の悪さ。「中二病」という概念や言葉がファッション化、ギャグ化していく中で真の意味での思春期を射抜いた作品といえるだろう。実際に思春期の真っ只中にいる中高生がこのアニメをどんなふうに見たのかはけっこう気になりますね。ちなみにアニメが好きな私のいとこ(高校2年男子)は2話まで見て、気持ち悪くてやめてしまったそうです。

 初回放映時に特にバッシングを受けていたのは仲村佐和のキャラクターデザイン。原作絵の仲村さんはふつうにかわいくて、ある意味で一番デフォルメされた存在なんですよね。仲村佐和役は実写の役と声の役をそれぞれ別の人が演じているわけですが、実写の仲村さんを演じた木村南さんもやはりかわいい。アニメ化する段階で製作者がはっきりと意図してその「かわいさ」をスポイルしている。原作のかわいくてサディスティックな仲村さんが好きだった人は確かに気の毒だなあとも思いました。しかし、今思えばここに製作者のスタンスが一番表れていたのではないか。覚悟といってもいいかもしれない。原作は仲村さんのルックスを美少女にすることでかろうじて「商品」としての体裁を保っていたような気もするんです。ところがアニメではこうしたデフォルメすらも剥ぎ取ってしまう。見た目をそのままトレースするのではなくて、原作が描こうとした陰惨で閉塞した思春期の日常にさらに足を踏み入れていく。ロトスコープ技法によってデフォルメすら剥ぎ取られた物語は目を背けたくなるほど生々しく、気持ち悪い。少しのファンタジーも入り込む隙のない圧倒的な「現実感」。なにしろ『惡の華』自体が、ファンタジーの世界に耽溺することで自意識を保っている春日くんの内面世界を徹底破壊する物語なのだから。この「現実感」は実写でも出せなかったとおもう。リアルな映像にはなっても思春期の目を通したいびつで気持ちの悪い「現実」とは違うわけですよ。今となってはこの題材とテーマを語る上でロトスコープが最適な方法だったと思えた。さらに感心したのは回を追うごとに仲村さんの魔的な魅力に観る側も引き込まれていったということ。劇中の春日君の心境とシンクロするように、「あれ?おかしいな。これは好きなのか?どうしてしまったんだ俺は!」というこれまでに味わったことのないようなふしぎな感覚だったし、キャラクターデザインに頼らずに仲村さんのファムファタル性を浮き彫りにして見せた演出にはうならされた。
 シリーズ通してのハイライトは、春日くんと仲村さんが初めて現実世界にはっきりとしたテロをおこなう第7話だろう。思春期の中学生は本質的にテロリストだとおもうが、大半は何もできない。なぜなら不良の万引きとかかつあげと同じような「問題行動」として片付けられてしまうのが目に見えているから。思秋期のころ、とにかくえたいがしれないくらい不愉快で、気持ち悪くて、きりきりと苛立ち、砂をかむように焦り、それでも自分の中でそっと摘み取る(あるいは目を背ける)しかなかった悪の華。もはや何に苛立ち、何に孤独を感じていたのかも忘れてしまった。それをふたりが代弁してくれたようで、なぜか涙があふれた。ラストに仲村さんが春日くんにこれまでと同じ罵倒ではなく敬意と共同意識を込めて「変態!」と言い放つときの高揚感。ここが最終話でもよかったとおもうくらい感動したが、後半はさらに陰鬱な罪悪感と自意識の物語へと展開していく。最終回には初見では唖然としてしまったが、春日君が仲村さんと一緒に「変態=テロリスト」として生きていくことを決めた、と見れば一応の決着したといっていいだろう。もちろん、続きはぜひ製作してほしい。そのときはできれば劇場版という形で見たいですね。
 4バージョンあった宇宙人によるオープニングテーマもキャラクターを理解して聞くとおもしろいです。春日高男、仲村佐和、佐伯奈々子のバージョンをそれぞれ担当したゲストボーカル、の子(神聖かまってちゃん。)、後藤まりこ(ミドリ)、南波志帆のセレクトも絶妙だった。これは買おうと思います。動画は4バージョンを1曲に編曲したもの(もともと1曲なのか?)。かっこいいです。