Devil's Own

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『風立ちぬ』(宮崎駿)

"The Wind is Running"2013/JP

 ここ数週間、映画を見に行けば、ほとんど強制的に『風立ちぬ』の予告編を見せられたわけだが、それでも4分間の映像には並々ならぬ力を感じずにいられなかった。矢も盾もたまらずひさしぶりに公開初日に早起きして映画館に向かったのだった。結論からいうと私は『風立ちぬ』という作品の魅力がいまいちわかりませんでした。わからなかったのだけど、今後2度、3度と見るうちに何かが印象が変わるかもしれないという気もしている。とりあえず今の感想を書き留めておきたい。
 『風立ちぬ』はゼロ戦の設計で知られる堀越二郎の半生に堀辰雄の小説『風立ちぬ』の物語を交えたフィクションです。小説『風立ちぬ』じたいが堀辰雄の実体験を基にしているので、この映画は同時代を生きたふたりの男の人生を組み合わせた物語といえる。さらにそこには、反戦主義者でありながら戦闘機にどうしようもなく魅かれてしまう宮崎自身のアンビバレンツな感情も投影している…というのも一般的な読み解きだろう。宮崎自身もこの愛憎のバランスにものすごく気を使ったのはわかる。少なくともこの映画は堀越二郎の功績を過度に神話化してはいない。いわゆるアニメ的な「見せ場」はほとんどあの4分間の予告編の中に凝縮されていて、全編の印象は本当に地味で素朴だ。小説『風立ちぬ』じたいは難病メロドラマの嚆矢ともいえる題材なのだから、いかようにも見せることができたはずなのだが、安易な感情移入はあえて封印している。私がこの映画をいまいちつかみきれなかったのもそのためだとおもう。観る側の感情を手取り足取りリードしてくれる現代のテレビ的な演出に見慣れた観客は少なからず戸惑うだろう。
 主人公の二郎はとにかく朴訥とした「善人」だ。いじめられている下級生を助ける正義感あふれる少年時代、初めて菜穂子とであったときの驚くほどの好青年ぶり、帰りの遅い親を待つ子どもに食べ物を譲ろうとするやさしさ、まことに非の打ち所のない「善人」なのだ。その善人が純粋な情熱をそそぎ、戦闘機を作り出す。私たちは二郎が作る戦闘機が、多くの若者達の命とともに消えていくのを知っている。知っているから、二郎の無邪気な努力はやるせなく、悲痛に映る。だが同時に、本当に二郎は「善人」だったのか、彼のような素朴な「善性」が積み重なったからこそ、誰も戦争をとめることができなかったのではないかという気もしてくる。二郎は、飛行機作りにしか興味がない。自分の作る戦闘機がどんなふうに使われるのか、何人の人の命を奪うのかをまったく想像もしていないように見える。「いったいどこと戦争するつもりなんだろう」なんて能天気なことまで言い出す始末だ。私は、そんな二郎の態度をどこかでずるいと感じてしまった。ミクロな視点で人を救おうとしていた若者が、マクロな視点で見れば呪われた殺人機械を作っていたという皮肉に打ちのめされる。関東大震災にしても戦争にしても、この映画の中でまともに死が描かれるシーンはついぞ現れない。それが、なんだかどうしようもなく………気持ち悪い。
 もちろん二郎の偽善性もさりげなく描かれてはいる。子ども達に差し出した菓子を結局受け取ってもらえなかった二郎に対し、友人の本庄は自分達が飛行機を作るカネで、いったい何人の子どもの腹が満たされるのか、と説く。ドイツ(?)からやってきたカストルプは「忘れる」という言葉を繰り返しながら二郎(と観客)が目を背けていた歴史の流れを突きつける。こうしたシーンは観客を現実に引き戻す。しかし当の二郎は戦闘機設計にしても、奈穂子との恋愛にしても、特に迷いもせず目の前の純粋な情熱だけをたよりに突き進んでしまうのである。そして二郎はついにたったひとりも救うことができなかった。それでも風が吹く限り生きねば、という。人生はかくも過酷で救いのないものなのか。そうおもうと、私は素直にこの物語に感動することができず、ただただ深く考えこんでしまうのだった。今後はいろいろな人の感想を読みながら、自分なりの感想を深めていきたいです。