Devil's Own

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ジジはなぜ言葉を失ったままなのか―『魔女の宅急便』(宮崎駿)

Kiki's Delivery Service/1989/JP

魔女の宅急便』について書きたいと、かれこれ3年くらい思い続けていました。宮崎駿の監督作の中でも屈指の人気作だから、特別な思い入れを持つ人も多いとおもう。私なんかよりもずっと多くの回数を繰り返し見ている人だっているだろう。私がこの作品について深く考える直接のきっかけとなったのは宗教学者島田裕巳の『映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方』を読んだことだ。『ローマの休日』や『スタンド・バイ・ミー』などの名作を「通過儀礼」という視点から分析することで、テーマやメッセージをつまびらかにする論評集で、映画(特にアメリカ映画)を読み解く格好のテキストになっている。その本のなかに『魔女の宅急便』を扱った章がある。タイトルは「『魔女の宅急便』のジジはなぜ言葉を失ったままなのか?」。ここで島田は『魔女の宅急便』、ひいてはジブリ作品全般における「通過儀礼の不在」を指摘する。「キキは、すべての好意がそのまま相手に受け入れられることを望んでいる」とし、きびしい現実に直面することなく物語が終わってしまっている点を批判している。さらにクライマックスの「トンボの救出劇」についても、キキがそれまで抱いていた葛藤の克服とまったく無関係なうえに、どうして空が飛べたのかの理由も示されないために「通過儀礼」になっていないと分析。空を飛ぶ能力が復活したのに、ジジと話せないままなのは、元通りになると「通過儀礼の不在」が暴露してしまうからだと結論している。確かに『魔女の宅急便』は、主人公をやや甘やかしすぎているきらいがある。さらに「トンボの救出劇」は、プロデューサー補だった鈴木敏夫のアイデアで付け加えられたものなので、とってつけたかのような印象がある。だからといって私はキキがまったく成長していないとは思わない。「通過儀礼」的な作劇はなされないが、『魔女の宅急便』は明らかにひとりの少女の成長譚として完成されている。そのことを書きとめておきたい。

 キキが「すべての好意がそのまま相手に受け入れられることを望んでいる」という指摘には、私も同意する。というよりも私はこれこそが『魔女の宅急便』の主要なテーマとおもう。キキは好意への他者の反応をめぐって一喜一憂を繰り返す。ほとんどそれだけで話が進むといっていい。旅立ちの日、キキの様子はどうか。晴れた夜に旅立ちたい、新しいホウキで行きたい、服がコスモス色ならいいのに―。ドラマチックな旅立ちを思い描くキキを、母親は「あまりかたちにこだわらないで」とたしなめる。キキは「わかっている」と返すが、実はまったくわかっていなかった。キキの思い描く「理想の旅立ち」は海の見える街に着いて早々にくじかれることになる。「魔女がくる」というだけで歓迎されるものとばかり思い込んでいたキキは、警察官に飛行を注意されたり、ホテルで身分証明を求められたりと想定外の反応に困惑し、すっかり意気消沈する。そこで初めてパン屋のおソノさんと出会うのだ。おソノさんに代わって客の忘れ物を届けることで、キキは住む部屋を得ることができた。空を飛ぶという才能を、人のために役立てることで初めて受け入れてもらえるのだと、キキは無意識に学ぶのだ。その後も物語は同じような他者への期待と落胆を、ほとんど弁証法的に反復していく。翌日、キキは自分の才能が少なからず役に立つことに気づき、宅急便を始める。「私、空を飛ぶしか能がないでしょう?」というせりふからも、キキが自分の才能をいくぶん謙虚に受け止めるようになったことがわかる。さっそく仕事をもらったキキは「この街が好き」と声を弾ませる。「街」はキキにとって他者そのものだ。いくつかのトラブルや新しい友達(画家のウルスラ)との出会いを経て、なんとか最初の仕事を終えたキキは「素敵な1日だった」と満足げに振り返る。

次に描かれるのは対照的に「みじめな1日」だ。仕事で訪れたおばあさんの家で、キキは孫娘の誕生日に贈るためのパイづくりを手伝い、雨の中急いで届ける。だのに当の孫娘はずいぶん素っ気ない態度でパイを受け取り「このパイ嫌いなのよね」と言い放つ。がっかりしたキキは、招待されていたパーティーにも行かずにベッドに潜り込み、翌日は高熱で寝込んでしまう…。先の島田の論評ではここからキキの魔法が失われたと書かれているが誤りだ。その後、キキは外出するときにジジと会話しているし、トンボと乗った自転車が浮かび上がったのもおそらくキキの魔法によるものだ。キキが魔法を失うのは正確にはその直後、トンボが別の友達(例の孫娘もいる)と仲良くしていることに機嫌を損ねて以降だ。
 キキの魔法はなぜ失われたのだろうか。社会学者の上野千鶴子は「なぜキキは十三歳なのか?」という論考*1の中で、キキの「性のめざめ」、要するに「初潮」のメタファーであると説明する。ひとつの有効な解釈とはおもうが、私はもう少し普遍的な思春期の試練だと感じる。まずジジとの関係に着目する。キキにとって「街」が他者だとすれば、「ジジ」は自己の分身だ。宮崎駿は当初、キキとジジを同じ声優に演じさせることを想定していた。キキとジジとの関係は親密でつねに安全だ。トンボと距離を縮め、せっかく心を開こうとしていたキキは、つまらない意地を張ることで再び他者を拒絶し、遠ざける。一方、ジジはというと、当初は「気取ってやんの」と敬遠していた近所の猫と自力で関係をきずき、閉ざされたキキとの関係から一歩踏み出す。この時点でキキとジジの成長には決定的な差が生まれ、二人の幼年期は終わってしまったのだ。
ほとんど唯一の才能だった空を飛ぶ能力とジジとの親密で安全な関係を喪失することで、キキは深刻なアイデンティティクライシスにおちいる。いよいよ真剣に他者と向き合い、自己を見つめなおさざるをえなくなるのだ。ここで重要な役割を果たすのが、画家のウルスラであり、キキが歩むべき道を指し示す*2。二人の声を同一人物が演じているのは必然ともいえる。キキは、ジジからウルスラへと自己像をシフトさせる必要があった。だから空を飛ぶ能力がよみがえっても、ジジと言葉を交わすことはできない。なぜならキキもまた、他者との関係へと踏み出してしまったからだ。
 ウルスラからアドバイスを得た後、キキは、ニシンのパイのおばあさんにケーキをプレゼントされる。自分の好意は孫娘にとってはありがた迷惑だったけれど、おばあさんにとってはやはりうれしいものであったし、無駄にはならなかった。見当はずれな期待のせいで、他者とすれちがい、裏切られたように感じることがあっても、やさしさはきっと誰かを幸せにするし、自分にも返ってくる。街にやってきた初日のストーリーを変奏し、反復したにすぎないわけだが、ゆるやかな自信回復という決着を経たうえで物語はクライマックス「トンボの救出劇」に向かっていく。おばあさんのケーキがあったからこそ、キキはためらうことなく走りだし、トンボを助けにいくことができたのだ。

「トンボの救出劇」はデッキブラシをうまく操ることができない飛行のあやうさもあいまって、息をのむスペクタクルシーンに仕上がっている。さらにこの場面は、人のために身を投げ出し、命を救う者に人々が喝采を送るという英雄譚的な味わいもある。私が思い出すのはサム・ライミ版『スパイダーマン』1作目のクライマックスです。キキの姿を見たテレビレポーターが「鳥か?」とスーパーマンを連想させるせりふを叫ぶことからも的外れではないとおもう。いずれにしてもこの場面は、キキがふたたび人のために働き、街に受け入れてもらうための「通過儀礼」として十分な役割を果たしている。


魔女の宅急便』でわけても私が素晴らしいと感じるのが、エンディングだ。スタッフクレジットのバックに後日談的な場面が描かれている。宅急便の仕事に励んだり、時計台でおじいさんと談笑したり…キキが街を愛し、また街から愛される存在になったことが丹念に描かれていている。劇中でキキが直面したさまざまな葛藤への変化もさりげなくちりばめられている。たとえばキキは街のおじいさんに借りたデッキブラシをそのまま使っている。不恰好でこっけいに見えるデッキブラシの魔女は、真新しいホウキで旅立とうとしていた冒頭のキキとは明らかに違っていて、「かたち」より「こころ」を大切にしていることがわかる。それからトンボとキキを追いかける車に乗った仲間たちには、あの孫娘の姿もちゃんとある。彼女とキキが仲良くなるようなご都合主義は避けつつも、歩み寄りへの期待も感じさせる控えめで上品な表現だ。キキが、自分と同じ格好をした小さな女の子に出会うシーンも好きだ。このときキキが見ているのが、序盤に登場したショーウィンドウの赤い靴だということにも注目したい。自分では不恰好に見えていても、誰かにとってのあこがれの存在であるかもしれない。鮮やかで繊細な自己肯定の表現に舌を巻く。そのあとはパン屋でトンボの仲間である女の子の一人と仲良くおしゃべりし、前を通った警官と手を振り合う。そう、ささやかかもしれないけど、確かにキキは変わったのだ。
 そしてラストの手紙だ。「落ち込むこともあるけれど、私この町が好きです」(キャッチコピーの影響もあり「私はげんきです」と勘違いされがち)。きっとキキは、あいかわらず他人を思いやっては、すれちがい、傷つき、落ち込んだりするのだろう。そしてまた、別の誰かのやさしさに触れるうちに、他人のために何かをせずにはいられなくなる。出会いへの期待と落胆を、おろかな一喜一憂を、繰り返しながら、それでも胸を張って「この街が好き」と言える。そんな少女に会うために、私はこれからもこの映画を見続ける。
 

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映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

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追記(ブコメの指摘へ)

 はてなダイアリーもことしで10年目ですが、今までで一番のブックマークをいただき本当にうれしいです。ブコメ欄にもおもしろい指摘がいっぱいであらためて皆さんの作品への思いが伝わってきます。せっかくなので考察を深める意味でもコメントに私なりの返答をしてみます。

  • 宮崎駿が、どっかで「ジジは最初から話せなくて、あれはキキが自分で生み出していた声」って言ってなかったっけ?(id:trade_heaven)
  • 魔女宅の「処女性を失ってイマジナリフレンドの声が聞こえなくなる」という展開で、カワディMAXの「コロちゃん」を思い出すぐらいには僕は汚れている。(id:napsucks)
  • 「ジジは喋らなくなったんじゃなくて、最初から全部キキの妄想だから現実に直面して夢から覚めた描写なんじゃ」ってかーちゃんが言ってた。(id:zeromoon0
  • ジジが言葉を失ったというより、キキが耳を失ったのでは??(id:heppoko1987

ジジはキキのイマジナリーフレンド(想像の中の友達)という見方をする人は結構多かったです。私もジジをキキの分身=オルター・エゴとして解釈しているので、この見方に近いのかなとおもいます。また宮崎駿自身の「ジジの声はもともとキキ自身の声で、キキが成長したためジジの声が必要なくなった。変わったのはジジではなくキキ」と発言も有名ですね。それにしてもカワディMAXの作品に言及する人が多いのには驚きました。

  • 島田裕己の本で啓発されたなら、父殺しはどこに出てくる?(id:ueshin)

まず正確には島田裕巳さん、なのですが、『魔女の宅急便』には島田氏の考える「通過儀礼」にまつわるイベントやアイテムはほとんど登場しません。具体的には二つの世界を隔てる橋や扉、タバコを吸う大人などです。島田氏はこれが『魔女の宅急便』の中で通過儀礼があいまい化しているあかしだと考えているようです。したがって「父殺し」もない…のですが、ジジとの精神的な別離による「乳離れ」もしくは「自分殺し」は果たしているのかなと個人的には思っています。

  • 「制作スケジュールが、押しに押していて、ジジが喋るラストワンシーンを入れる余裕がなく喋らせられなかった」と鈴木敏夫氏が語っていた記憶がある。「シナリオ書かずにコンテを描くもんだから」と愚痴ってた。(id:otokinoki)
  • 量と質から観客に残るイメージより、制作者の声。スケジュールが押してジジが喋るワンシーンを入れられなかったので本題前提が崩れた。でもそんな裏話を漏らすほうがどうかしてるんだけど。(id:ene0kcal)

鈴木氏による「本当はジジしゃべる予定だった説」は私も知っています。ブコメで書いている人もいましたが鈴木敏夫氏は饒舌ぶりは本当に困りもので、彼の発言によって作品内容が深まるならまだしも、個人的にはあんまりしっくりこないことが多いんですよね。姑息で後出しじゃんけんっぽいときもあるし。先にあった宮崎自身の解釈との整合性も加味して、眉唾な話と思っている。仮に本当にそうだったとして、もし予定通りジジとの会話が復活していたとしたら、私はここまで『魔女の宅急便』を好きにはならなかっただろう。ここで言いたいのは、私は制作者の意図との「答え合わせ」にはあまり興味がないということです。

  • 魔女キキとナウシカは原作最後まで読むと映画がどうでも良くなる系。ところで「宮崎駿の監督作の中でも屈指の人気作」のソースは。どのランキングでも不動の首位ラピュタ、次点カリ城トトロ千尋あたりだぞ。俺は豚。(id:sqrt)

ソースとかないです。すみません。テレビ放映回数は「ラピュタ」「トトロ」「ナウシカ」「カリ城」についで5番目だったとおもいます。どのランキングでも5位以内にはだいたい入るんじゃないですか。5本指に入るのは屈指じゃないかと。まあでも「宮崎駿の監督作の中で屈指の人気作」って確かにあまりいい表現じゃないですよね。だいたい、どれも人気作なわけだし。原作は私も好きですが、映画は「どうでもよくな」りはしません。

パン屋の旦那が喋らない理由も分析してくれ。(id:gohankun

これはあくまで結果論、印象論でしかないですが、ほかの方がブコメで指摘していたようにトンボの「男性性」を際立たせるためだったのでは。これには上野千鶴子氏的な、第二次性徴の物語としての解釈が有効かもしれませんね。つまりトンボと出会うまで、キキはあくまで性的に安全圏にいる。だからパン屋の旦那は作劇上「去勢された」キャラクターにならざるをえなかったというわけです。あくまでうがった見方ですが。

てっきりジジが魔女の使い魔としての役割りを放棄して普通の猫としての生活を選択したために人語が喋れなくなったものだと解釈してた (id:dobonkai)

面白い解釈ですね。実は、原作ではジジと会話ができなくなる、空が飛べなくなるといった展開がまったくないのですが、魔女は生まれたときに同時期に生まれた黒猫と一緒に育てられ、互いにパートナーを見つけると同時に離れて暮らすようになるという慣習があると描かれています。ジジがパートナーを見つけ、別の道を歩んだからもうキキと話せなくなった、という解釈は十分成り立つような気がします。

*1:ジブリの教科書5「魔女の宅急便」所収

*2:ちなみに島田の論考はウルスラの存在をまったく無視しているという点でも不完全だ