Devil's Own

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初恋の呪い―『ローラ』(ジャック・ドゥミ)

Lola/1961/FR

 『ローラ』はジャック・ドゥミ監督の長編第1作だ。ドゥミと聞くと『シェルブールの雨傘』や『ロシュフォールの恋人たち』に代表されるめまいがするような色彩感覚と甘いメロディーに彩られたミュージカル映画を思い起こす人も多いとおもう。『ローラ』はモノクロ映画でミュージカルでもないが、港町、水夫、シングルマザー、踊り子などドゥミ作品における主要なモチーフは、ほぼすべてそろっている。今でこそ国内でソフト化され、上映される機会も増えたが、完成から長い間日本で『ローラ』を見るチャンスはごく限られていた。「ヌーヴェルヴァーグの真珠」と評したジャン=ピエール・メルヴィルをはじめ、名だたる映画作家が贈る賛辞を聞いては、想像し、恋い焦がれるほかない「夢のフィルム」だった。日本での初公開は1992年だが、当時7歳の私はもちろん見ていない。
 私が初めて『ローラ』を見たのは2007年3月20日。渋谷のユーロスペースだった。あの夜を今も鮮烈に覚えている。胸をかきむしるような切なさにとりつかれ、ふらふらと映画館をあとにした。電車に乗っている間も、アパートに帰ってからも、ベッドに入ってからも、美しいナントの風景が、愛すべき登場人物たちが、ベートーベンのシンフォニーが、頭から離れない。心を盗まれるとはきっとああいうことを言うのだろう。映画には、人の生き方を決定的に狂わせてしまう魔力があるのだと私は初めて突きつけられた。それはもう、ほとんど恋としか言いようがなかった。
 そして、あの夜から8年が過ぎた。映画の中でローラ(アヌーク・エーメ)は7年間も恋人を待ち続ける。当時はずいぶんと長い時間に思われたが、今はそうは思わない。この8年間、あの夜の陶酔とフィルムへの恋心が、私の中で色あせることはなかったからだ。
 ただ、この映画についてまともな文章は書けなかった。ラウール・クタールのカメラがとらえた光のように、『ローラ』のうつくしさははかなく、つかみどころがない。だから『ローラ』についてつづると、いつだってやたらと感傷的な、できの悪いラブレターのようにしかならなかった。今回もそうなるとおもうが、30歳を前にもう一度この負け戦に挑むことにした。

 『ローラ』はドゥミのふるさとでもある港町ナントを舞台に3日間の人間模様を描いた群像劇だ。初恋の相手を7年間も待ち続けるシングルマザーの踊り子ローラを中心に、複数の登場人物が交わり、あるいは交わることなく物語を織りなしていく。冒頭、海岸沿いの道路に白いオープンカーが滑り込み、タイトルが現れる。ここで流れる短く美しい旋律はドゥミが敬愛する映画監督マックス・オフュルス『快楽』からの引用である。タイトルクレジットのかたわらには「マックス・オフュルスに」と律義に記されている。そもそもローラという名前じたいがオフュルスの代表作『歴史は女で作られる』(原題『ローラ・モンテス』)からの取られているとの説もあるが、実際は『嘆きの天使』(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)からのようだ。
 いずれにせよヌーヴェルヴァーグ一派の例にもれず、ドゥミもまた愛する映画へのオマージュを映画のいたるところに忍ばせている。ただ『ローラ』が真にすぐれているのは、こうしたオマージュが自然に物語に溶け込み、教養主義におちいっていない点だ。『ローラ』を見るために、知識はいらない。必要なのは誰かをはげしく恋い焦がれながら、敗れ去った苦い記憶だけだ。
 ドゥミ作品のなかでは、多くの人々がすれちがいを繰り返す。『ローラ』はわけても、めまぐるしいすれちがいが繰り広げられる1本だ。冒頭の数分間だけで、すでに幾多のすれちがいが描かれている。オープンカーの男、アメリカの水兵フランキー、そして主人公のローラン・カサール。3人の男はおのおのがローラというひとりの女性を介して関わりを持ちながらも、互いに言葉を交わす瞬間はついに訪れない。劇中で彼らは何度もすれちがうが、互いの存在をほとんど意識しない。観客だけが彼らの「近くて遠い」ふしぎな距離感を目撃することになる。自分のまわりでも、同じようにすれちがい、出会わなかった人がいるのだろうか。そんな想像をかき立てる。「出会わない運命」を丹念に描きつくしているからこそ、ドゥミの映画のなかの「出会い」は運命的で、息が詰まるほどにドラマチックにみえる。

 主人公のローラン・カサールはいかにも頼りないダメ男である。登場早々に寝坊した上に、会社の上司には「読書していた」と悪びれもせず遅刻の言い訳をし、当然のようにクビになる。そのくせ口だけは達者で、行きつけのカフェで女主人と常連客を相手に理屈ばかり並べている。ジャック・ベッケル監督の傑作脱獄映画『穴』で知られるマルク・ミシェルが、無気力でペシミスティックな青年を好演している。物語が進むにつれ、彼の心に影を落とす戦争の傷跡が明らかになる。「たった一人の友達だったポワカールも殺された」というせりふはもちろん、ゴダールの『勝手にしやがれ』への目配せだ。自暴自棄になったカサールはポワカールと同じく犯罪社会に足を踏み入れかけるが、初恋の相手ローラ(本名はセシル)との再会をきっかけに、生きる希望を見出していく。

 この映画にはローラのほかにもうひとりのヒロインがいる。カサールが書店で出会う14歳の少女セシルだ。ローラの本名と同じ名前を持つこの少女は、もちろん若き日のローラのすがたでもある。ローラの運命をなぞるようにアメリカの水兵フランキーと出会い、恋に落ちる。フランキーとセシルが祭りで遊ぶ場面は本作のハイライト。不可解だけど、あらがうことのできない恋の魔法を、これほどみごとに表現した映像を私は知らない。高揚感と官能に上気したセシルの表情。バッハの平均律クラヴィアが流れる中、駆け抜ける2人をスローモーションでとらえたショットのとろけるような甘さ。少女が恋に落ちた、まさにその瞬間を生け捕っている。
 ドゥミにとって14歳という年齢も重要だ。ローラが初恋の相手ミシェルと初めて出会ったのも14歳とされている。ローラとカサールの年齢は劇中では語られないが、俳優と同じ年とすればともに29歳。二人の再会は15年ぶりというから、カサールがローラに恋をしたのも14歳のときかもしれない。ちなみにドゥミが「生涯の1本」と崇拝し、本作でもオマージュをささげている『ブローニュの森の貴婦人たち』(ロベール・ブレッソン監督)に出合ったのも14歳だ。ドゥミが「14歳の初恋」にこだわるのは、彼自身が映画と恋に落ち、取りつかれた年齢だったからなのかもしれない。
 
 『ローラ』は、初恋をあつかった映画だ。「どうして初恋は特別なのか」。少女セシルの問いにカサールは「初恋は一度きりの特別なもので、二度とめぐってこないから」と答える。多くの人にとって初恋は、生まれて初めての相互理解への敗北だ。挫折は、いつまでも心の片隅に居すわり、私たちを縛り、傷つけ続ける。それなのに、たびたび記憶から取り出しては未練がましい後悔だけが積み重なっていく。まるで呪いのように、人々の心に棲みつく初恋という名の幻想。その甘美さと残酷さの両面を引き出したからこそ、『ローラ』は特別な映画になった。
 待ち続けた恋人がついに現れ、物語はハッピーエンドを迎える。だが、それはカサールの恋が敗れたことを意味する。初恋の「勝者(ローラ)」と「敗者(カサール)」が最後にすれちがって、映画は幕を閉じる。ハッピーエンドの充足感とともに、ほろ苦い敗北感が押し寄せてくるのはこのためだ。振り返ってカサールを見送るアヌーク・エーメのクローズアップが美しい。ディズニー映画のおとぎ話よろしく、ローラにかけられた呪いは解けた。だがそれは、彼女にとって幸せなことだったのか。憂いを帯びた表情は、きびしい現実を予感させる。
 じっさいドゥミは別の映画でカサールとローラのその後を描いている。個別の小説のなかに共通のキャラクターを再登場させ、横糸を編むことで、世界全体を描こうとしたバルザックの「人間喜劇」と同じ手法をドゥミもフィルモグラフィーのなかで実践していく。カサールは『シェルブールの雨傘』で宝石商として成功した姿を見せ、カトリーヌ・ドヌーブ演じるヒロインと結婚する。皮肉にも今度が自分が別の男の恋を打ち砕く存在になっていた。ローラは『モデル・ショップ』で夫に棄てられ、いかがわしい店のモデルに身をやつす姿が語られる。
 ドゥミの映画は一見して明るく空想的だが、その裏側には血なまぐさい暴力や戦争といった過酷な現実が潜んでいる。人々はしばしば運命にほんろうされ、引き裂かれる。ある者は自暴自棄になり、ある者は幻想を抱きつづけるがドゥミは全ての人々にひとしく、優しいまなざしをそそぐ。そして、最後は必ず希望が勝利する。理想と現実の落差に打ちひしがれながらも希望を捨てないローラと接し、カサールは気づく。「幸せを願うだけで、すでにちょっとだけ幸せなんだ。人生は美しい」。このせりふにドゥミの人生賛歌が凝縮されているのではないか。傷だらけの幻想を抱き続ける人々がいる限り、ヌーヴェルヴァーグの真珠は輝きを失わない。