Devil's Own

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『ボヴァリー夫人』(ヴィンセント・ミネリ)

"Madame Bovary"1949

少し前から気になっていたヴィンセント・ミネリ監督による『ボヴァリー夫人』。メトロ・ゴールデン・メイヤー製作のアメリカ映画で、むろん全編英語である。エマ・ボヴァリーをジェニファー・ジョーンズが、シャルル・ボヴァリー(劇中ではチャールズと呼ばれている)をヴァン・ヘフリンが演じている。『ボヴァリー夫人』の映像化が何本あるのかは知らないが、私が見るのはこれが4本目だ。むせ返るセックスの予感にフォーカスしたルノワール版、良くも悪くも文芸映画としての格調を重んじたシャブロル版、田舎地獄の描出に力を注いだソクーロフ版と、それぞれに魅力があるし綻びもある。本作は先に上げた3本よりずっとキャッチーな出来であり、メロドラマ作家としてのミネリの資質が遺憾なく発揮されている。ルビッチの『小間使い』もそうだが、ジェニファー・ジョーンズの美貌にはどこか庶民的な素朴さ(悪くいえば田舎臭さ)があって、それが本作のエマ・ボヴァリーの役柄にきれいにはまっていた。ヴァン・ヘフリンはすこし若すぎるが、田舎っぺ感はよく出ている。
ボヴァリー夫人』は抑圧された欲望の物語である。しかし、その欲望は必ずしも肉欲と置換しうるものではない。これは原作そのものに関してしばしば曲解されている重要な本質だとおもう。エマを突き動かしているのは、きらびやかな衣装やアクセサリーで着飾りたい、周囲にちやほやされたいという、女の子としてはごく自然でまっとうな消費への憧れと虚栄心であり、セックスは大して重要ではない。そして、若いエマには片田舎で埋没するには惜しいくらいに輝く美貌と肉体があった。だからこそ、彼女は都会での生活を身を焦がすほど求める。エマが真に渇望するものは「ここではない何処か」への劇的なエクソダスなのだ。そして、哀しき凡人シャルル・ボヴァリーにはこうした欲望を1ミリも理解することができない(理解しようと努めているからこそ哀しい)。ここにに欲望のメロドラマとしての『ボヴァリー夫人』の普遍性がある。ボヴァリー夫妻が初めて舞踏会に参加するくだりは、すれちがうふたりの性格が見事に活写されており、私が原作で最も好きな場面だ。ミネリの映画においても、歓喜に身をふるわせるエマと、そんなエマを見つめ幸せに思いながらも居心地の悪さを感じているシャルルの心情がていねいに描かれており、痛ましくも美しいシークエンスとなっている。踊り疲れて座り込んだエマがふと鏡を見つめると、そこには美しいドレスに身をつつみ男たちに囲まれた自分の姿が映っている。このイメージはエマが真に渇望する光景として終盤にも登場するが、贅沢の魅惑と空虚さが同居した見事なイメージである。性に関する言及が制限されていた事情もあったとはおもうが、そのことによって本作はエマの欲望の本質をより浮き彫りにしている。「どうして美しいものを求めてはいけないの」と問いながらエマは死んでいく。愚かな女かもしれないが、私はどこか欲望に喘ぐエマの気持ちがわかる気がする。そしてエマの欲望と苦しみは先日見た『SR2』の主人公たちと通底しているようにおもえた。いつの時代も女の子をとりまく環境は苛烈なのだ。