Devil's Own

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今すぐ使える!映画ドラえもん全作品レビュー

 あけまして、ぼくドラえも…すみません発作が。あけましておめでとうございます。ダイシックスです。今年もよろしくおねがいします。
 かねて予告していた通り年末に劇場映画ドラえもん全30作を見終えました。作品ごとにtwitterで感想をつぶやいていたのですが、140文字では表現しきれない部分もあるので、これを基にした全作レビューをまとめておきます。一応、これが私の感想文決定稿です。冬休みの宿題や受験の手引きなどにどしどし活用していただければいいかとおもいます。
後日追加:ネタバレ含みますので各自ご判断願います。

1.『恐竜』〜『大魔境』


大長編ドラえもん」は映画化を前提とした連作シリーズで、第18作『ねじまき都市冒険記』まではほぼ毎年、藤子・F・不二雄自身の手で原作が描かれている(病床に伏していた1988年『パラレル西遊記』を除く)。藤子氏が手掛けた大長編を見たり読んだりしていると、その多くが「非日常世界での冒険を通して、少年少女が成長する物語」だということがわかる。ジュヴナイル映画の黄金律ともいうべき基本構造だが、こうした作劇は『ドラえもん』の世界観の根幹を揺るがしかねないものだった。ご存じのとおり、『ドラえもん』は短編漫画を基本としている。永続的に月日がめぐる「終わらない日常」を舞台としており、のび太たち登場人物が成長してはいけないのだ(学年誌連載の場合はのび太の年齢は読者に合わせて変化したりもしている)。したがって、『ドラえもん』という素材を用いて、長編映画のストーリーを構成する作業は、思いのほか難儀だったのではないか。だが、『ドラえもん』が依拠している「終わらない日常」が、逆説的に大長編に効果をもたらすことになった。安全で永続的な「終わらない日常」に裏打ちされているからこそ、それが突き崩される展開には緊迫するし、のび太たちの「成長」には強くうたれる。第1作『のび太の恐竜』以下の3作品は、藤子氏が『ドラえもん』の素材を用いながら少年少女の成長譚を洗練させていく過程ともいえる。(画像は第1作『恐竜』)

『恐竜』(福富博/1980)

 『野生のエルザ』に着想を得た記念すべき第1作。ドラえもん一行が冒険を余儀なくされる状況や、悪役組織との対立関係など展開に無理も多く、決して高い完成度とはいえない。今見ると、『ET』ミーツ『ジュラシック・パーク』という趣があり、実際スピルバーグも本作にインスパイアされて『ET』を製作したという噂がまことしやかに囁かれたりもした。正直この話はかなり眉唾というかハリウッドコンプレックスむきだしの都市伝説だとおもうが、本作がどことなくウェルメイドなアメリカ映画を彷彿とさせることはたしかである。話のスケールは小さいが、のび太とピー助との交流が繊細に描かれ、忘れがたい印象をのこす。劣等生で弱虫だが心優しいのび太を、誰もが好きにならずにはいられないだろう。異生物との邂逅を通した少年の成長物語、綿々と紡がれていく大長編のプロトタイプともいうべき作品だ。

『宇宙開拓史』(西牧秀夫/1981)

 畳の裏側が彼方の星に通じていて…。非日常空間での冒険とロマン、大長編ドラえもんの方向性を決定づけた2作目。惑星の開拓移民と資源を狙う大企業の対立、二挺拳銃で大活躍するのび太など、宇宙を舞台としながらも内容はオーソドックスな西部劇といえる。地球ではうだつも上がらない僕でも、別の星に行けば超強くて、超ちやほやされるんだぜというボンクラ幻想を地で行くコンセプト。『アバター』を筆頭に今やアメリカ映画の王道ともいえるが、あくまでのび太の成長に寄り添っているところが良かった。どうして映画になるとあんなにのび太が勇敢なのか。こうした性格造形にれっきとした必然があることが、この作品を見るとよくわかる。ラスト、コーヤコーヤ星に別れを告げる場面で、クレムがのび太に教えてもらったあやとりを見せるくだりは感動的だ。原作にはなかったが、いい脚色だった。

『大魔境』(西牧秀夫/1982)

 のび太と同じく「お約束」として揶揄されることも多い「映画になると優しくなるジャイアン」は本作から。ジャイアンにしても都合良くキャラクターが変化するわけではなくて、彼なりの悩みと葛藤、責任がしっかりと描かれている。本作ではジャイアンをフィーチャーしつつも、前2作では描かることがなかったレギュラーメンバー5人のつながりをより明確に打ち出してみせた。主題歌「だからみんなで」をバックに、ひとりまたひとりと敵に向かって歩いていくシーンはせりふを一切用いないシンプルな演出で涙を誘う。ドラえもんと4人の少年少女が冒険を通して認め合い、結束を強めていく、大長編を象徴する名場面といえるだろう。すべてが解決したあと、もう一度タイムマシンで自分たちを助けにいくというラストにも胸が熱くなる。巨神像が暴れだす場面は『大魔神』を思わせ、なかなかのスペクタクル。

2.『海底鬼岩城』〜『竜の騎士』


異生物・異人類との共生(『恐竜』)、異世界での冒険とロマンス(『宇宙開拓史』)、5人の仲間で力を合わせる(『大魔境』)といった大長編の骨子が1作ごと形成されていき、芝山努監督の恐怖演出を加えた『海底鬼岩城』で完成を見せる。以降芝山は第25作『ワンニャン時空伝』に至るまで、シリーズ最多のメガホンをとることになり、絶望表現、恐怖演出において高いスキルを発揮した。長編ドラマ作劇の要領を得たのか、藤子氏のストーリーテリングもキレキレに冴えわたっている。舞台設定やプロットも毎回驚くほどに考え抜かれており、舌を巻く。ここから数年はまさしく黄金期ともいうべき傑作群だ。(画像は第7作『鉄人兵団』)

『海底鬼岩城』(芝山努/1983)

 芝山努が初登板。瀕死のジャイアンスネ夫を見ながら「シヌノデスカ」と冷たく言い放つバギー、沈没船の中に座る船長の白骨死体、後半の禍々しい画面設計などこれまでの3作とはまったく雰囲気の異なる恐怖シーンが続出する。ある世代にとって映画ドラえもんのトレードマークともいえるホラー要素は、やはり芝山の資質に依るところが大きかったのだろう。バミューダトライアングルやムー、アトランティスの伝説などを材に、独自の物語を構築する藤子氏の手腕にも驚嘆するほかない。みなに馬鹿にされながらも、ただひとり自分に優しくしてくれたしずかちゃんのために、ぽんこつバギーがとる行動には思わず涙。手に汗にぎる冒険と、空想を刺激するロマン、大長編のエッセンスがぎっしりと詰まった傑作だ。

魔界大冒険』(芝山努/1984

 シナリオ構成が作を追うごとに洗練されていくのを感じる一本。今回の舞台はドラえもんのび太もしもボックスで呼び出したパラレルワールドであるため、他のレギュラーメンバーすらも別人というのが何とも切ない。こうしたパラレルワールドのうすら寒さもさりげなく描かれており、唐突なエンドマークの登場には誰もが愕然としたとおもう。序盤に登場するドラえもんのび太の石像の存在が不安感を煽り、後半は魔界の禍々しい美術設計に引き込まれる。ダークファンタジーとしての映画ドラえもんの剣呑としたムードを存分に味わえる作品。

『宇宙小戦争(リトル・スター・ウォーズ)』(芝山努/1985)

宇宙を舞台としながらその内容は古典的な西部劇だった『宇宙開拓史』とは違い、今回は『スターウォーズ』を引き写した王道のSF戦争アクションである。MGMロゴマークを始め古今東西の映画をパロディにしたオープニングが楽しい。本作のハイライトは、しずかちゃんが敵に立ち向かっていく展開に尽きる。もはやのび太ジャイアンの勇敢さは当たり前となってしまったが、しずかちゃんはあくまでも普通の女の子として描かれている。本当はこわくて、逃げ出したくてたまらない。それでも、泣きながら立ち向かっていく。しずかちゃんより更に臆病なスネ夫もなけなしの勇気を振り絞って活躍を見せる。私はこういう展開に弱いのだ。戦闘シーンも勇壮で申し分なく、武田鉄矢が歌う主題歌「少年期」も出色。

『鉄人兵団』(芝山努/1986)

鏡面世界というコンセプトだけでも偉大な発明というべきだろう。この設定の導入により、シリーズ中最も熾烈な鉄人兵団との戦いが『ドラえもん』の日常世界において実現可能となった。東京タワーや国会議事堂など実在の建物も含めた大都市が次々と破壊される光景に、「今見ているのは本当に『ドラえもん』なのか」と固唾をのむほかない。人類と同じような進化と闘争の歴史を持つメカトピアもまた、地球と鏡像関係にある。鉄人兵団の攻撃ぶりも壮絶だが、ロボット美少女リルルが一瞬だけ見せる冷酷な表情は本気で怖い。そんなリルルが少しずつ心境を変化させラストの行動に至るまでが丹念に描きこまれており、ラストののび太のせりふには泣かされる。この時期の作品はどれも必見だが、中でも頭一つ抜きんでた印象のある大傑作だ。

『竜の騎士』(芝山努/1987)

『海底』〜『鉄人』までの作品群と比較するとさすがにスケールが小さい印象。そもそも誤解から生じた争いだけに盛り上がりに欠けるというか、種を守るためバンホーだけ過去に残るとか展開に必然性があればよかったとおもうのだが…。とはいえ藤子氏のストーリーテリングは神業の域に達している。一見、荒唐無稽で幼稚にも思える作品世界(多くの物語は、まさにのび太がそうした発想をみなに馬鹿にされることから始まっている。)を、現実の神話や伝説、オカルティズムを引用し、細部の描写を積み重ねることで確かな説得力を持たせていく。絶滅した生物が地下で独自に進化し、文明を築いていたというアイディアは面白く、文明起源の謎がタイムパラドックスを用いながら明らかになるシナリオ構成も見事。

3.『パラレル西遊記』〜『アニマル惑星』


 奇想天外摩訶不思議、だが現実味は確かにある作品世界を毎年のように「でっちあげ」続けるのにもさすがに無理がある。『パラレル西遊記』以降の作品群は、コンセプトそれ自体に驚くということは少なくなってきた。だが、展開やビジュアルにさまざまな趣向を凝らすことによって安定したクオリティを維持している。この時期の映画ドラえもんはプログラムピクチャーとして円熟の高みにあったといえるだろう。原作者不在で『パラレル西遊記』という良作をものにできたことはスタッフの自信につながったかもしれない。芝山努の作家性がもっとも顕著なのもこの時期だ。(画像は第11作『アニマル惑星』)

『パラレル西遊記』(芝山努/1988)

 藤子氏存命中では唯一原作がない映画オリジナル作品。れっきとした原作者がいるなかで、代役としてシナリオを任されたもとひら了氏へのプレッシャーは想像するほかない。藤子的なSF(すこしふしぎ)観は希薄だが、「西遊記」というモチーフを、タイムパラドックスを絡めながらうまく構成しており、他の大長編と並べても遜色ない傑作に仕上がっているのではないか。特筆すべきは、芝山演出の真骨頂ともいうべき徹底したホラー描写。異様に暗く不吉な背景画、妖怪化した大人たちの恐ろしさ、ママがゆっくりと階段を上ってくる場面などにはちびっこを本気で打ちのめそうとする酷薄さを感じる。後半では痛快なアクションへと大きく舵を切っており、母子の絆というシンプルなテーマも胸をうつ。ドラえもんが「危険が危ない!」と叫ぶ場面も語り草。

『日本誕生』(芝山努/1989)

丁寧な作画と画面設計、上映時間も初めて100分を越え、記念すべき10作目を集大成にしようという気概が伺える。家出して行き場のないのび太をからかうジャイアンスネ夫の背景が不動産のポスターになっていたりと、細やかで計算されたルックにはしびれる。5人が家出して集まるという「空き地に集合!」的な展開もいい。悪役キガゾンビと彼が操る土偶型のロボット(?)ツチダマが戦慄的で、ドラえもん神隠しについて説明する場面や遭難したのび太が見る夢にも不気味な味わいがある。のび太が作り出したペガサス、グリフィン、ドラゴンとの交流は、彼の独創性と優しさが伝わってくる素敵なエピソード。原作者とスタッフが最良のコンディションで、1作目を語りなおしたかのような作品だ。

『アニマル惑星(プラネット)』(芝山努/1990)

同じくホラー色の強い『パラレル西遊記』が「怪奇」だとすれば、本作は間違いなく「恐怖」においてひとつの頂点を見せた作品だ。『パラレル西遊記』とは違い、本作の「こわさ」ははっきりこれだと指差すことができない。幼少期に、VHSで繰り返し見たおぼえがあるが、見るたびに不穏な気持ちにさせられたことを思い出す。得体のしれないピンク色の靄、巨大な月、荒廃したニムゲの惑星、ガスマスクを被ったニムゲのデザイン、光の回廊を使い月から逃げていく動物たちのイメージ、食物を生産し続けている無人の工場、不気味な音楽…。一見メルヘンな世界に散りばめられたさりげない要素が不安を掻き立てる。ニムゲを見てしまったスネ夫が表情を凍りつかせる場面では、三段階のカットインを用いており、ヒッチコックの映画か、楳図かずおの漫画のようである。環境問題への言及(ママが地球環境について説明する場面も気味が悪い…)にやや教条的なきらいもあるが、荒廃したニムゲの星へのび太が単独潜入する場面はスリリング。傑作。

4.『ドラビアンナイト』〜『ブリキの迷宮』


『アニマル惑星』において恐怖表現はひとまず鳴りをひそめる。さすがにやりすぎだったということか。ここからの3作は、ドラえもん=4次元ポケットの万能性を否定していく「アンチドラえもん」3部作ともいうべき作品群である。思うにドラえもん=4次元ポケットの存在は、その自由さゆえにとても不自由なものだったのではないか。ドラえもん無効化の流れはある意味必然だったわけだが、こうした禁じ手を用いて新たに物語を躍動させる藤子氏の胆力には感心する。4次元ポケットの紛失(『ドラビアンナイト』)から、ドラえもんの一時的な故障(『雲の王国』)、そして完全な機能停止(『ブリキの迷宮』)に至るまでのエスカレーションも実に巧みだ。(画像は第14作『ブリキの迷宮』)

ドラビアンナイト』(芝山努/1991)

 中盤までは行方知れずのしずかちゃんを探すことがドラマの推進力となっており、後半はいつもの冒険活劇。それにしてもしずかちゃんが閉じ込められた絵本をのび太のママが燃やしてしまうシーンには当時かなり動揺した。体操服姿で奴隷商人に連れまわされるしずかちゃんの悲壮感も生々しいが、サディスティックな欲望の萌芽を自分の中に初めて認めたことも告白しておく。いずれにしても多感な幼稚園児には刺激が強すぎた。もうひとつの特徴は、ドラえもんの4次元ポケットが長時間紛失してしまう展開だろう。代わりに数々の魔法道具をあやつる船乗りシンドバットが登場し、活躍を見せる。キャラクターとしては大して掘り下げられたわけではないが、なかなか印象深かった。

『雲の王国』(芝山努/1992)

絶滅危惧種を保護している天上界との衝突と相互理解。プロットはほぼ『竜の騎士』のリライトである。ネタ切れ感はあるが、ドンジャラ村のホイやキー坊の登場などテレビシリーズとのリンクが図られたり、ノア計画の大洪水やドラえもんの故障・特攻などのインパクトは絶大で、初期の傑作群に間に合わなかった世代にとっては特別な作品である。また「戦争映画」としての映画ドラえもんを見たときに、『雲の王国』はひとつの完成形といえるかもしれない。大量破壊兵器による牽制、膠着状態が、「指導者」の過ちによって取り返しのつかない事態へエスカレートしていく様子はリアルな戦争そのもの。環境主義や左翼思想に若干の欺瞞が感じられるものの、十分面白い90年代の代表作。

『ブリキの迷宮(ラビリンス)』(芝山努/1993)

ドラえもんが拷問の末完全に機能停止し、物語の大部分はのび太たち4人によって語られている。海に廃棄されたドラえもんは絶望表現ここに極まりといったところで、「アンチドラえもん」の流れにとどめを刺した。本作が優れているのは、4次元ポケットの万能性を徹底否定することで、ドラえもんの真のアイデンティティを観客に訴えかけた点ではないだろうか。スペアポケットによる形勢逆転のアイディアは秀抜というほかなく、ドラえもんのび太の分かちがたい絆を見事に表現して見せた。ドラえもんと4次元ポケットは等価ではない。4次元ポケットが使えなくても、役に立たなくても、のび太ドラえもんがいなくちゃ駄目なんだ、素直にそう思えて心がふるえた。ナポギストラーが「糸まきのうた」を歌いながら絶命する場面もなにげにトラウマ。

5.『夢幻三剣士』〜『ねじ巻き都市冒険記』


 『ブリキの迷宮』は、『ドラえもん』という素材を使って表現しうるドラマの臨界点だったとおもう。この先、マンネリズムを防ぐには、ママやパパ、ドラミや出来杉といったサブキャラクターをストーリーに介入させていくか、ゲストキャラクターにフォーカスしていくしかないだろう。いずれにしても、のび太たちレギュラー陣は後景化せざるをえない。だが、藤子氏は敢えてのび太たち5人の物語を貫き続ける。はっきり言って、ここまですべての作品を見てきたものにとって、後の作品はかなり退屈だ。だが、自己模倣の道を選んだからこそこの映画シリーズは世代を超えて愛され続けたともいえる。以降の作品群も特定の世代にとってみれば、忘れられない宝物のような映画になっているにちがいない。ここからは否定的な感想も出てくるけど、これは言うまでもなく私個人の感想であり相対論にすぎないので、気にしないでくださいね。(画像は第17作『銀河超特急』)

『夢幻三剣士』(芝山努/1994)

作品のクオリティははっきりと低下した。夢の世界で、好みの登場人物になりきり、ストーリーを演じるというアイディアはおもしろいし、しだいに夢と現実の境界が曖昧となっていき驚きのラストカットへとつながる展開も好きだ。だが、せっかく用意した「三銃士」のモチーフも大して活かされることがないし、舞台設定も悪役キャラクターも『魔界大冒険』の残滓でしかない。ジャイアンスネ夫が唐突に退場してしまったり、夢の中にしずかちゃんがふたり登場していたりと整合性にも欠ける。テーマ曲に頼りきった演出もいかがなものか。とはいえ妖霊大帝オドロームやその手下たちの描写では、久々にストレートな恐怖演出が冴えわたっていて忘れがたい。何よりものび太、しずかが焼け死んでしまう場面の衝撃はシリーズ屈指。

『創世日記』(芝山努/1995)

のび太は夏休みの宿題として、ドラえもんの道具創世セットで小宇宙を作る。だが、そこでは哺乳類とは別に昆虫人も独自の進化をとげていた。のび太が地球を作成していく過程は、男の子特有のものづくりの楽しさに溢れている。『キテレツ大百科』に顕著な藤子氏の工作マインドが感じられる一幕だ。暗躍する昆虫人がどう絡んでいくのか期待が高まるが…。脱線に脱線を重ねるストーリーに、ドラマはどんどん失速していき、大した盛り上がりもないまま終わってしまう。結局パラレルワールドの話だし、昆虫人といえばこちらは当然ドラえもん版『スターシップ・トゥルーパーズ』を期待しているわけで、話し合いで解決など求めてないのだよ。

『銀河超特急(エクスプレス)』(芝山努/1996)

銀河鉄道、保安官、忍者、海賊、恐竜と少年趣味の一大ショーケース。パラサイト生命体ヤドリのコンセプトはなかなか秀逸で、寄生されたスネ夫のび太の表情はけっこうこわい。友達のこういう顔見てしまったらその後の関係に支障をきたしてしまいそうだなあ…。狡猾で手ごわいキャラクターではあるが、登場の必然性がうすく攻勢も甘いために敵役としてはいまいち弱い印象。のび太の射撃が久々に大活躍するがいくらなんでも神業過ぎていまいち高揚できない。堅苦しいメッセージ性が取り払われ、久々に風通しがいい。メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」も相まって映画ならではのリッチさがみなぎる忘れ難い作品ではある。

『ねじ巻き都市(シティー)冒険記』(芝山努/1997)

ここ数作にくらべれば展開にもひねりがあるし、各キャラクターの見せ場もそれなりに用意されており満足度は高い。だがのび太たちが作ったぬいぐるみ王国のキャラクターが、なんだか全然かわいくないのだよな。理科室の骨格標本や小便小僧、乗り物のパンダからなるデコボコ一座のほうが魅力的だったし、もっとフィーチャーしてほしかった。前科百犯の脱獄囚は現実だとたしかに怖いが、映画ドラえもんの悪役としてはさすがに矮小化され過ぎている気がする。泣いても笑ってもこれが藤子氏の遺作。のび太たちレギュラー陣が別れの挨拶をしながらどこでもドアの向こうへ去っていき、これ以降エンドクレジットにも一切登場しない。これは藤子氏からの惜別という意味もあるのだろうか。感傷的な気分にさせられた。

6.『南海大冒険』〜『ワンニャン時空伝』


偉大な原作者、藤子・F・不二雄氏没後に作られたオリジナル映画については否定的見解も多く見かける。『南海大冒険』から『ワンニャン時空伝』までシナリオを執筆したのはテレビシリーズも手掛けた岸間信明。原作の世界観やキャラクターの魅力を熟知したうえで、良質なエンターテインメントを提供している。しかし、細かい描写を積み重ね、ウソの世界をまるまるでっち上げて信じさせるようなパワーはなく、あくまでもファンタジーの世界にとどまっている印象だ。メガロマニアックとすらいえる発想力と語りの精密さは、やはり藤子氏の天才だった。といいつつ、やや息切れ気味だった晩年の作品群と比べれば、岸間氏の仕事にもフレッシュな魅力がある。風当たりの強い作品群だとおもうが、出来のいいものは積極的に評価していきたい。(画像は第25作『ワンニャン時空伝』)

『南海大冒険』(芝山努/1998)

海賊船での胸躍る冒険とロマンス。怪しい悪役にチームワークで立ち向かうストレートな展開。新しいものは何もないが、かつての藤子氏の作劇を徹底踏襲することで皮肉にも久々の痛快作となった。各キャラクターの心情がたいへん丁寧に描きこまれており、のび太の手を離してしまったジャイアンがそのことをとても後悔しており、その後の行動に活きてくる展開などはなかなかよくできているとおもう。オープニング、エンディングともに主題歌をなぜか吉川ひなのが歌っており、かなりひどい出来。

『宇宙漂流記』(芝山努/1999)

今回もプロットに真新しさはないが、宮武一貴スタジオぬえを起用した宇宙船のデザイン素晴らしく、魅惑的なゲストキャラ、幻覚を見せる危険な惑星、スペクタキュラーな戦闘シーケンスなどさまざまな要素がバランスよく配分された映画ドラえもんの王道となった。芝山氏直筆のイラストによって歴代作品を振り返る20周年記念のエンディングも素敵。歌はSPEED!

太陽王伝説』(芝山努/2000)

童話「王子と乞食」をモチーフに、前半はのび太と王子ティオの替え玉生活を描いたコメディ、後半ではティオの王国をめぐる魔女レディナとの戦いを描く。前後半でカラーが異なるが、あくまでのび太とティオの友情と成長が中心に据えられている。ここへきて初めて、レギュラー陣以外のゲストキャラクターが深く掘り下げられることになった。外見はのび太そっくりだが、性格は尊大で熱血気質の王子ティオは緒方恵美の好演もあいまって魅力的に造形されている。のび太のママに気圧されながらも自分の母親の面影を見てしまったり、ジャイアンと全力で殴りあったり、しずかちゃんを泣かせてしまったりと、のび太側の「日常」を通してティオが少しずつ成長していく過程を活写していく。キャラクターそれぞれに見せ場があり伏線回収も絶妙だ。ディズニーやスピルバーグなどどことなく王道のアメリカ映画を思わせる傑作。なお、本作のオープニング主題歌はウィーン少年合唱団が唄っているのだが、これが吉川ひなのとはまた別の意味で脱力。ただアニメーションはかっこいい。

『翼の勇者たち』(芝山努/2001)

いよいよドラえもん一行は狂言回しへと退き、バードピアの飛べない鳥人グースケの成長が丹念に描かれている。ハイライトとなる中盤の飛行レースシーンは『ファントム・メナス』を経由し、遠く『ベン・ハー』の残響が聞こえるかのようだ。グースケの描写に腐心するあまり、鳥人王国という設定や、悪役などの描きこみが希薄でバランスを欠くところもある。なによりスネ夫に懐く雛鳥が、単なるマスコットどまりで物語にまったく活かされなかったことが残念だが、マンネリズム防止の方向性としては正当に評価できる好編といえる。

『ロボット王国(キングダム)』(芝山努/2002)

人間がロボットの「人間性」をはく奪するという、これまでの『ドラえもん』には意外と見られなかった『鉄腕アトム』的主題をもつ作品。これはドラえもんの存在そのものに関わるテーマでもあり(『ブリキの王国』ですでに回答が得られている気もするが)、姉弟同然に育った人間の王女とロボット少年の確執にこのテーマがどう絡んでくるか、期待が高まったが、必要な描写を怠った挙句の唐突な愁嘆場にかなり興醒め。冒頭のタイムマシンでの戦闘はなかなかよかった。

『ふしぎ風使い』(芝山努/2003)

スネ夫が操られて途中まで完全な悪役、という展開はいいとしてもその後必要な落し前も描かれないために単なる嫌な奴になってしまっている。前作と同じくキャラクターの行動に何の動機づけもないので感情移入もできない。もはやアイディアのかけらもない惰性と予定調和の産物。

『ワンニャン時空伝』(芝山努/2004)

『のら犬「イチ」の国』を原案に、のび太とイチ(そしてハチ)の友情をていねいに描いていくシンプルながら王道のストーリー。ひさびさにタイムパラドックスのトリックが冴えたシナリオ構成。のび太とイチ、ハチの絆を取ってつけたようなせりふではなく、けん玉というアイテムを用いて表現することで素直に感動できるようになっている。加えてこのけん玉はのび太のおばあちゃんにもつながっているという徹底した「継承」と「絆」のテーマには感心した。これ!これ!こういうの見せてくれなきゃ!『帰ってきたドラえもん』に始まる一連の感動中編を手がけ、後に『恐竜2006』『緑の巨人伝』を監督する渡辺歩が作画を担当。しずかちゃんを筆頭にキャラクターデザインが大幅に変化している。ひさびさにメンバー全員が力を合わせるクライマックスも、これまで見られなかったカーチェイスの迫力もあいまって圧巻の出来。大山のぶ代ら主要キャスト、そして芝山努監督はついにこれで最終作だが、有終の美を飾るのにふさわしい傑作になった。

7.感動中編(『帰ってきたドラえもん』〜『ぼくの生まれた日』)


1998年『南海大冒険』から2002年『ロボット王国』までの5年間は、原典でも特にドラマ要素の強い短編を原作・原案とした中編作品が同時上映されている。いわゆる感動中編5部作と呼ばれる作品群で、この時期に映画館でドラえもんを見た世代には、メインプログラムよりもこちらの方が印象に残っているという人も多いとおもう。言及を避けるには惜しい作品群なので、特別に補足しておきたい。この5作は、後に長編のメガホンをとることにもなる渡辺歩が監督、作画監督を手掛けている。細部まで作りこまれた美術背景、季節感と日常風景の繊細な描写が目を引き、長編ではあまり見られなかったメロドラマ的味わいもある。私が今回この5部作を見返していていちばん驚いたのは、それぞれにはっきり季節感をもって描かれている点である。テレビシリーズで同エピソードがアニメ化された際は、ここまで細やかな季節の演出はなかったと記憶しているし、長編映画では基本的に春休みか夏休みを舞台としているのため、画期的な試みだったのではないだろうか。(画像は『のび太結婚前夜』)

『帰ってきたドラえもん』(渡辺歩/1998)

藤子氏によって描かれた『ドラえもん』の最終回は3本存在しているが、そのうちもっとも有名なものが『さようならドラえもん』だろう。その後、連載再開の第1回として描かれた『帰ってきたドラえもん』と合わせて映像化したのが本作。なので、この映画は2部構成といった印象もある。ひとつ目のクライマックスは、のび太ジャイアンに喧嘩を挑む場面だ。現存する最終回はどれも「のび太の自立」をテーマとしているが、『さようならドラえもん』は最もその色合いが強い。のび太にとっての「超えるべき壁」がジャイアンというのはどうかとおもうが、この際どうでもいい。降りしきる雨の中繰り広げられる泥臭い喧嘩は渡辺歩の真骨頂といったところで、大映ドラマばりの過剰演出がいい方向に働いているとおもう。ふたつめのクライマックスは文字どおり「帰ってきたドラえもん」の場面だが、「ウソ800」という小道具を用いた展開は天才的だ。ジャイアンスネ夫を懲らしめた後、のび太が見せる空虚な表情が実にいい。「ドラえもんの不在」をのび太が心から認めたことが結果としてドラえもんの帰還へとつながっていく。「本当に必要なもの」はドラえもんだったと解釈することもでき、「のび太の自立」というテーマから逸脱せずにストーリーを収束させる完璧なハッピーエンドだ。このエピソードによって、ドラえもんの「保護者」としての役割は終わり、ふたりは互いになくてはならないかけがえのない関係へと変化したといえる。

のび太結婚前夜』(渡辺歩/1999)

ドラえもんのび太が物語に一切干渉することなく、あくまでも傍観者に徹している。このエピソードの事実上の主役は成人した未来ののび太たちであり、ドラえもんのび太が立ち会っていない場面(先生との会話やバチェラーパーティーでのジャイアンのせりふ)も挿入されるなど、かつてないほど大人のドラマが展開している。前作では「のび太の自立」が描かれていたが、今回強調されるのは「変わらないのび太」の姿だ。冒頭、横断歩道で老婆の手を引く少年期ののび太、大人になったのび太一行が子猫を飼い主に届けるプロット、そしてラストのタンポポに至るまで、変わることのないのび太の優しさが円環構造としてきれいに配置されている。子猫を届けた父娘を見て、しずかの心に結婚への迷いが生じるというテーマ移行もスムーズだ。しずかと両親の結婚前夜を写しとる手つきは繊細そのもの。ここには、成瀬にも通じる日本映画最良のうつくしさがあるように思うがどうだろうか。

『おばあちゃんの思い出』(渡辺歩/2000)

一連の中編作品のなかでは最もわかりやすく「感動」へ振れた作品かもしれない。落ち葉や落日のイメージを印象付けながら子ども映画でぎりぎり表現しうる限り、「死」のモチーフへ近接している。ほとんど無尽蔵ともいえるおばあちゃんの愛情が印象的だが、つぎはぎのぬいぐるみによって、それがママへと継承されていく表現も見事。私がこの作品でもっとも胸をうたれたのは、5年生ののび太が幼いジャイアンスネ夫に負けてあげるというくだりである。これは確か本作オリジナルの展開だったようにおもうが、改めてのび太の成長をうかがわせる秀逸な場面だ。渡辺の監督作にはたびたび登場する「坂道」の光景も美しく、ノスタルジーの苦々しさまでも飲み込んだ名作だ。

『がんばれ!ジャイアン!!』(渡辺歩/2001)

不器用で男気に満ちた劇場版ジャイアニズム(「お前のものは俺のもの〜」の方ではない)が味わえる作品。随所に挿入される三味線の音、降りしきる雪の情景、昭和の下町を彷彿させる剛田家の設計、妙に芝居がかったジャイアンのせりふ回しなど、松竹の人情コメディやAプロダクション時代の『ど根性ガエル』を思わせるユーモアとペーソスが魅力だ。コメディ演出が光る前半部と人情味にあふれる後半部、どちらも「走る」行為によって躍動しており、登場人物のシンプルな身振りが男泣きを誘う。連載当初のび太の結婚相手はジャイ子だった。それがドラえもんの介入によってしずかちゃんへと改変されることになり、少女マンガ家を目指す乙女チックなジャイ子の性格は後々付与されたものだ。藤子氏は、のび太にとって回避すべき障害物に過ぎなかったジャイ子をもう一度拾い上げ、かつての自分を重ね合わせるかのような新しいキャラクター像へと変容させていった。ここに私は藤子氏の自作に対する並々ならぬ愛情を感じてしまう。エンドクレジットのラストは余計な説明は一切ないが、ジャイアンジャイ子というキャラクターへのスタッフの愛情が感じられ、心憎い。

『ぼくの生まれた日』(渡辺歩/2002)

誕生日に叱られたからといって家出をするのび太はとんでもない親知らずだとおもうが、雨の中を歩くシーケンスの寂寥感は味わい深い。ここでは、しずか、スネ夫ジャイアンと彼らの母親との絆がさりげなく描かれており、エンドクレジットでまた別の意味を持ってくる。こういうのを伏線というのだよ。「ぼくなんて生まれてこなければよかった」というのび太のせりふに、ドラえもんが割と本気になって怒るところもいい。のび太ドラえもんが雨の中を走る場面には、公園のシーソー(『帰ってきたドラえもん』)、教会(『のび太結婚前夜』)、坂道(『おばあちゃんの思い出』)が登場する。細かいが、のび太の人生の「厚み」を物語るシーケンスだ。注目すべきポイントを挙げるときりがないが、何といっても、のび太、パパ、ママ、そしてドラえもんがエレベートボタンを使って木の上まで昇っていくラストシーンに尽きるのではないか。導入部の蟻の行列に始まり、雨の中をさまよい歩くのび太、一目散に病院へ向かうパパ、そして再び雨の中を走るのび太ドラえもんといった具合に、「前進」運動がこの映画の基本的な身振りとなっている。タケコプターもどこでもドアも最後まで頑なに使用を避けているのだ。それだけに、最後の上昇運動には言いようもないカタルシスと多幸感が横溢する。のび太ドラえもんに手を差し伸べ、4人が身を寄せ合うカットは微笑ましく、5部作の末尾を感動的に飾ってくれた。

7.『恐竜2006』〜『人魚大海戦』


ここからはキャストがリニューアルされた後の作品群。オリジナルとリメイクを毎年交互に製作していく方式をとっており、2011年現在オリジナル2作、リメイク3作がリリースされている。ちなみに2011年は、第7作『鉄人兵団』のリメイクが公開予定。それにしても、固定概念というものはおそろしい。幼少期から、大山のぶ代らキャストに慣れ親しみ、その印象が身体の芯までしみついてしまった人間にとって、水田わさびら新キャスト陣でリニューアルした『ドラえもん』(以下「わさドラ」)を受け入れるのは、想像以上に大変だった。だがその違和感さえ克服すれば、「わさドラ」にも独自の魅力があるといえる。まずはキャラクター造形が、原作漫画に準じていること。水田わさび演じるドラえもんは、ずいぶんノリが軽くかなり頼りないが、これにより原作初期にあったスラップスティックなギャグ漫画としての魅力が加味されたようにおもう。全体的にキャストの声のトーンが高めなのが気になるが、若々しくなったジャイアンなども魅力的で、5作通して見てみると私は「わさドラ」もまた気に入っている。(画像は第29作『新・宇宙開拓史』)

『恐竜2006』(渡辺歩/2006)

キャストリニューアル第1作。キャラクターデザインやのび太の部屋、空き地など背景はより原作に準じている。元々完成度が高いとはいえない原作だが、『ジュラシック・パーク』的恐竜アクションを大幅に追加し、作画もレベルがアップしているのでかなり楽しめる作品になったといえるだろう。ただ、のび太泣きすぎ。恐竜ハンター動きすぎ。このケレン味溢れる過剰演出をどうとるか。これが本作の評価の分かれ目となるだろう。しかし、のぶドラ版では描かれなかった場面やせりふが補てんされていたり、特にのび太ジャイアンの友情やスネ夫の心の変化が描かれたことは評価すべきだ。いいところもたくさんあるのだが、いくらなんでもオーバーアクトがすぎる。

『新魔界大冒険』(寺本幸代/2007)

真保裕一を脚本に迎え、持ち前の高いストーリーテリング能力を発揮している。ただ、元々簡潔な三幕構成だったのでどんな新機軸を打ち出そうが蛇足な印象。美夜子と母親のキャラクタードラマなどは、魔界星での冒険やメジューサの恐ろしいデザインを捨て去ってまで付け足すべき要素だったのかはなはだ疑問である。原作やのぶドラ版の持ち味だった悪夢的なムードは皆無にひとしい。よくも悪くも『ハリー・ポッター』以降のジュブナイルという感じだろうか。『恐竜2006』ほど過剰な愁嘆場が演じられるわけではないので、それなりに楽しめるリメイクではある。

『緑の巨人伝』(渡辺歩/2008)

わさドラ初のオリジナル作品。のび太とキー坊の交流と日常を描く前半部はすばらしい。背景も細部に至るまで丹念に描きこまれており、ジャイアンスネ夫が手すりをつたって日陰を歩いている場面など、これまで意外と見られなかったリアルな小学生描写も高く評価したい。後半に進むにつれ物語はどんどんおかしな方向へ。出来杉くんがかなり唐突に深いことを言い始めたり、のび太とキー坊がタケコプターもなしに空を飛んでいたりと、引っかかるところも確かにあった。だが、まさかここまでおかしなことになるとは…開いた口がふさがらないとはこのことである。いったい何がどうしたのか。チープな背景に、統一感のない作画、躁鬱病としか思えないキャラクターのテンション。「深遠」で「高尚」だと思われる「メッセージ」らしきものが語られるが、深すぎて何を言いたいのかまったくわからないため、押しつけがましさと説教臭さだけが印象に残る。何の前ふりも伏線もなく、いきなり『ぼくの生まれた日』とか引用されてもなあ…置いてきぼり感が尋常じゃない。自分が見てるのは『ドラえもん』なのか。カルト教団の教育ビデオじゃないのか。子供たちは一体これをどう見たのだろうと余計な心配をしてしまう怪作。

『新・宇宙開拓史』(腰繁男/2009)

新キャラ・マリーナのエピソードは明らかに蛇足で、かなり取ってつけた感がある。特に父親のエピソードなどは無理やり伏線を張ってみようと努力しているが、その伏線自体が露骨に浮いてしまっているためまったく上手くいっていない。『新魔界大冒険』のように既存のキャラクターを掘り下げていくならまだしも、新しいキャラクターの見せ場を作るために物語の推進力を停滞させるのはいただけない。だが、それ以外は概ね原典の漫画版に準じており、評価できるリメイクといえる。のぶドラ版にはなかったのび太ギラーミンのメキシカンスタンドオフが描かれたり、チャーミンやコーヤコーヤ星の動物たちもたいへんキュートにリライトされている。のび太ドラえもんが大活躍する場面で『スーパーマン』を思わせるBGMが流れたり、トカイトカイ星の場面がなくなったかわりにコーヤコーヤ星で西部劇的な街並みが表現されていたりと、原作の方向性に準じた改変や脚色はおおむねいい方向に働いているとおもう。わさドラ期に入ってから安易なタレントのキャスティングが目立ってくるが、本作のアヤカ・ウィルソンはいちばんひどかった。でも、かわいいのでいいとおもう。

『人魚大海戦』(楠葉宏三/2010)

海になった街のビジュアルの楽しさ、オカルトな人魚伝説を背景とした世界観、人魚の王女ソフィアの凛としたうつくしさなど藤子マインドの残滓はかすかに見受けられる。少なくとも、のび太たちが人魚王国に出向く第2幕途中まではかなり引き込まれた。しかし、ゲストとのび太たちの細やか交流や「人魚の剣」をめぐるドラマの描写が淡白で納得もできないため、高揚感がまったくない。こども映画に徹したぶん『緑の巨人伝』よりははるかにいい出来だが、全体としては「それなりに楽しめる」という一言に尽きるというか、無難な印象ではある。

終わりに

当たり前のことだが、あらためて藤子・F・不二雄の遺産の偉大さに気づかされる思いだった。同時に、大山のぶ代らキャスト陣、芝山努を筆頭とするスタッフの仕事ぶりにも心動かされ、良質なプログラムピクチャーを毎年劇場で見ることができた幸福に感謝したい。それにしても、ウェスタン、SF、ホラー、戦争、サスペンス、コメディとほぼ全ジャンルを横断する大長編のショーケースぶりには驚く。恋愛要素は少ないが(エロはある)、ここに感動中編5部作を加えると恋愛やメロドラマも網羅することができ、もう映画にとって大事なもののすべてが『ドラえもん』にあるといっても過言ではない。いやこれはアジテーションとかじゃないよ。まじで。今回全作を通して見てみて、私の中のゆるぎないテーゼとして確信した。
映画のすべてはドラえもんにある。
それから、今回初めて気がついたのは作詞家武田鉄矢の仕事ぶりである。藤子氏の没後、武田氏も主題歌の作詞から勇退されてしまったが、映画ドラえもんの魅力を凝縮したかのような、あたたかくそれでいて切ないひだまりのような詩世界は、間違いなく初期の傑作群において絶大な効果をもたらしている。近年の人気歌手を起用したタイアップが悪いとは言わないけど、やっぱり主題歌は作品世界への深い理解と愛情を持っている人に作ってほしいものです。青山○ルマとかmihi○GTとか悪いとは言いませんが…。
最後に、個人的に映画ドラえもんのベスト10を選んでおきたいとおもう。みなさんはどれが好きでしょうか。アンケートとかとりたいけど、こんな弱小ブログでは票が集まりそうにないのでやめておきます。もしよければコメントでこっそりおしえてくださいね。

  1. 『海底鬼岩城』
  2. 『ブリキの迷宮』
  3. 『鉄人兵団』
  4. 『アニマル惑星』
  5. 『パラレル西遊記
  6. 魔界大冒険』
  7. 太陽王伝説』
  8. 『宇宙開拓史』
  9. 『宇宙小戦争』
  10. 『ワンニャン時空伝』

Togetter「映画ドラえもんの感想まとめ」
http://togetter.com/li/79405

おまけ:主題歌部門1位

島崎和歌子「何かいい事きっとある」(『ブリキの迷宮』主題歌)