Devil's Own

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『エイリアン4』(ジャン=ピエール・ジュネ)

"Alien:Resurrection"1997/アメリカ

 インターネットが浸透して、それまでパブリックな批評では黙殺されがちだったジャンル映画や続編映画についての評価を目にする機会も増えた。これは本当にいいことだとおもう。こうした流れの中で『エイリアン4』のファンも意外に多いことがわかって驚いた。いまや売れっ子監督であるジャン=ピエール・ジュネのハリウッド進出作である。世の中には「映画好き」を自称する「アメリ好き」という人種がいて、そういう人たちが『エイリアン4』に興味を持ったためしがない。いや、私も『アメリ』はふつうに好きですよ。しかし、ジャン=ピエール・ジュネの最高傑作は間違いなくこの『エイリアン4』ではないか。実際ジュネのキャリア全体から見ても、『エイリアン4』は異色どころか、以前/以後というタームで語ることができるほどの重要作だ。具体的な変化として、それまでタッグを組んでいたマルク・キャロとの決別が挙げられる。あくの強い作家性がハリウッドの風土には馴染みづらかったのか、数種類の衣装デザインを提供したあとキャロはジュネのもとを去り、以降一緒には仕事をしていない。『エイリアン4』のオファーが来たときジュネは『アメリ』のシナリオに取り掛かっていたそうだが、マルク・キャロとの決別がなければ『アメリ』の作風はずいぶん違ったものになっていたかもしれない。いずれにせよ最新作にまで通じるジュネのポップな感性は『エイリアン4』において本格的に頭角を現し始めた。『4』は『3』のようにシナリオが迷走することもなく、コンセプトとマーケットを着実につかみとったうえで理想的なジャンル映画として仕上がっている。ジャン=ピエール・ジュネはシリーズ本来の魅力と自身に求められた資質をすばやく察知し、前3作には見られなかったユーモアとエロティシズムを注入してみせた。メビウスなどのフレンチコミックをほうふつとさせる洗練された画作りも、ふつうのアメリカ映画には見られない独特の味わいがある。しかし、リドリー・スコットのSF観がメビウスに多大な影響を受けていることを考えれば、ジュネのコミック的なヴィジュアル構築もあながち間違っていなかったのではないか。全編、コミックをそのまま画コンテにしたようなキメ画が連発するんですよ。これは『エイリアン4』大きな魅力のひとつだ。あまりにかっこよくて馬鹿らしいのでいくつか紹介したい。

 実験船オリガに乗り込む貨物船ベティのクルーたち。ずらっとした横並びがキマっている。ベティのクルーたちは宇宙海賊といった趣があり、一作目のノストロモ号の面々にも通じるものがある。

 2作目以降どんどんマッチョ化していったリプリーは、本作ではほとんど超人である。バスケットコートでベティのクルーに喧嘩を売られる場面では、投げつけられたボールを片手でキャッチ。


 さらには後ろ向きでシュートを決める。この場面はトリック撮影一切なし。監督にCGを提案されたシガニーがむきになってバスケの練習を重ね、たった6回のテイクでシュートを決めたという。

一方、ウィノナ・ライダーが演じるコールは1作目のリプリーを思わせるキャラクターになっている。レズビアン的でもあり擬似親子的でもあるリプリーとの関係性の描写が見事。画像は酔っ払ったコールがボクシンググラブをつけたまま酒を飲もうとするところだ。こうしたユーモラスでキュートな女の子描写はジュネのお家芸といったところだろうか。結局酒をこぼしてしまい「ふざけんなビッチ」ってなるロン・パールマンとゲイリー・ドゥーダンのリアクションもいい。

私のお気に入りであるベティのナンバー2・クリスティ(ゲイリー・ドゥーダン)。『タクシードライバー』を参考にしたとおぼしき、銃の飛び出すガジェットがかっこいい。クールだが仲間思いの男気あふれるキャラクターである。

ジュネ作品の常連ドミニク・ピノンは、車椅子に乗って移動。車椅子を分解するとショットガンになるというボンクラすぎるアイディアが光る。

ロスト・チルドレン』にも出演し、いまやヘルボーイとしておなじみのロン・パールマン。よくも悪くも体育会系のキャラクターとして描かれている。はしごに宙吊りになって銃を連射するこの場面は屈指の名シーン。

前作に引き続き、エイリアンはアクションを起動させるものとしての性格をさらに強めた。恐怖演出のためこれまではあまり画面に映ることがなかったエイリアンが気前よく何度も登場するのも本作の魅力と言えるだろう。キッチンでの水中撮影はこの映画最大の見せ場であり、泳ぐエイリアンもかなりクールだ。
 …といった具合に、今でこそガーリーな映画ばっかり作っているジュネが、『エイリアン4』では熱いボーイズスピリットを炸裂させていることがお分かりいただけたかとおもう。ジュネって馬鹿でしょう?
 一方シリーズ中もっとも悲劇的で痛ましいストーリーラインについても特筆すべきだろう。シガニー・ウィーバーは『エイリアン3』の公開時、「20世紀FOXはシリーズを作るためにクローンでリプリーを蘇らせるわよ」と皮肉を飛ばしていたそうだが、はたして本作はクローン技術によるリプリーの復活から始まる。クローンリプリーに生前の記憶や性格までも継承されているのはさすがに無理があるが、こうした細部はあまり気にすべきではない。『3』のリプリーが時間移動で連れてこられたパラレルワールド、くらいの理解でいいとおもう。重要なのは、タイトルにもあるResurrection(キリストの「復活」)が人間の手で執り行われたこと、そのタブー性である。本作が公開された97年、イギリスでクローン羊が作られ話題になったが、テクノロジーによる生命操作への恐怖感は時代の気分として確実にあった。私たちの肉体も精神も完全に複製可能であるという恐怖。リプリーがいくつもの「失敗作」と対峙するくだりはあまりにおぞましく悲しい。同時に、シリーズ全体に共通していた妊娠恐怖のモチーフも、前作でのリプリーの「受胎」を経て宗教的な色合いを強めていく。後半のハイライトはリプリーの子供ともいうべきニューボーンエイリアンとの悲劇的な邂逅だろう。生命操作によって産み落とされた許されざる命を前にして、リプリーはあまりにも残酷な決断を迫られる。倫理観を揺さぶられ、胸を締め付けられる名場面だ。シリーズを通してエイリアンそのものには善悪はなくむしろそれを利用する人間の醜悪さが強調されていたが、『4』におけるニューボーンエイリアンの末路はこうした思想の極め付きといえるのではないか。これまで生きるためにエイリアンを殺してきたリプリーの罪悪感を描くことで人間として生きることそのものの原罪を問いかけているようでもある。おおげさに聞こえるかもしれないが、『エイリアン4』は紛れもなくいのちについての映画なのだ。