Devil's Own

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『ブラック・スワン』(ダーレン・アロノフスキー)

"Black Swan"2010/US

 アロノフスキーの最新作『ブラック・スワン』はバレエに取材したサイコスリラーと一応は説明できる。物語構造上の『Perfect Blue』(今敏)との類似性も指摘されているとおりだし、華やかな舞台役者の内幕ものとして『サンセット大通り』を思わせたりもするが、何よりも監督の前作『レスラー』を強く意識させる。なるほど本作ラストの演出が意図的に『レスラー』を踏襲していることは間違いないが、単なる焼き直しだとはまったくおもわない。低俗な見世物興行と揶揄されるプロレスと高尚で洗練された伝統芸能として称揚されるクラシックバレエ。まったく異なるカルチャーの中で肉体を酷使するひとりの人間を同じように描くことで共通する本質を浮かび上がらせた。
 ナタリー・ポートマン演じるバレリーナ・ニナは「白鳥の湖」で念願の主役を射止める。しかしタイプの異なる二役を演じるプレッシャー、過剰に干渉してくる母親の抑圧、自分にはないセクシーさを兼ね備えたライバル・リリー(ミラ・クニス)の出現などにより次第に精神バランスを崩していく。不安定なカメラワーク、色調を抑えた荒い画面、パラノイア気味のカッティング処理、重苦しい音楽などあらゆる演出が見る者を不安にさせる。この映画のテーマを一言で表現するなら「分身」だ。「交換」と言ってもいいかもしれない。ほぼ全シーンに登場する鏡の存在が、作品のモチーフを効果的に象徴している。自分が他の何者かと交換可能であることへの恐怖。没落していったかつての花形バレリーナ・ベス(ウィノナ・ライダー)、バレリーナとして大成しなかった母親、開放的なセックスを体現するリリー、そして黒鳥の幻影、すべてがニナの分身といえる。こうした幾多の分身の中に埋没していくことこそが本当の恐怖なのだ。だからニナは必死に自分以外の何かになろうとする。ベスの楽屋から口紅を盗むくだりなど、最初に見たときは「?」という感じだったが反芻すると胸が押しつぶされるくらい切ない。
 何より切ないのは、バレエに打ち込むこと自体が母親の自己実現欲に裏打ちされている点である。分身におびえる彼女が、唯一すがりつくことのできるバレリーナとしての自己すらも母親の欲求によって形成されたものなのだ。彼女の部屋の異様な少女性はどうだろう。12歳のときから時が止まってしまった部屋。過剰な母性の中に閉じ込められたニナの哀しすぎる人生が見えてくる。正直言ってニナの悲劇性は『レスラー』どころじゃない。あいつは別にいいんですよ。破滅的な生き方しかできない自分のことを自嘲しながらも納得している。ただ『ブラック・スワン』のニナは、バレエのほかに生き方を知らない。考えたことすらない。クラブも酒もドラッグもキスもセックスもオナニーも、すべてがバレエのため。普通の女の子のように楽しむことを知らないし、その不幸に気が付いてもいない。
 すべての分身を殺し同化しながら"Perfect"へと昇華していくニナ。ここで初めて『レスラー』と同じ演出がとられた意図に気がつき驚愕する。ニナが決死の覚悟で掴み取った"Perfect"な生き様すら、ダメ男プロレスラーの物語と交換可能であることの恐ろしさと滑稽さ。その哀切に私は涙をこぼしてしまうのだった。傑作。