Devil's Own

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『SUPER 8/スーパーエイト』(J・J・エイブラムス)

"Super 8"2011/US

 ネタバレエイトです。
 J・J・エイブラムスの最新作『Super 8』は、傑作と言ってしまっていいと私個人はおもっている。ただ、今この作品についてさまざまな言説が提示されることにどうも収まりの悪さを感じてしまうのだな。私たち大人がいろいろと感想を述べたとしても、10年後には今の子どもたち世代によってすべて塗り替えられてしまうのではないか。いやむしろそうであってほしい。映画館の暗闇の中で息を殺して『Super 8』を見つめ、胸のふるわせた体験をいつまでも大事にしていてほしいんだよ。7歳のとき映画館で『ジュラシック・パーク』を見たときのばくばくと波打つような心臓の鼓動を私は今でも覚えている。『ジュラシック・パーク』が当時の大人たちにどんな評価を受けていたか調べたこともないし、正直どうでもいい。そういう映画であってほしいんだよ。
 ダイシックスはまた自分に酔っぱらって感傷的なことを書いている…と思われそうだが、じっさい『Super 8』は、映画が子どもたちの心に深く刻まれることについての物語だとおもうんですよ(それはある種の呪いでもあるわけだが)。エイリアンのキャラクター設定が適当すぎるとか、主人公が持ち帰ったキューブが作劇上意味を持たないのはいかがなものかなどなど・・・この映画にいくつもの欠点が存在することなら私にもわかる。だが一方、こうしたつじつま合わせがそんなに重要なのかも疑問だ。『イングロリアス・バスターズ』を「戦争アクションとしてつまらない」と評価しているような違和感を覚えるんですよね。エイリアンはひとまず置いておいて少年と映画の関係にフォーカスすると、この映画が本当に伝えたかったことが見えてくる。
 監督自身も話しているように、基本となるプロットは夏休みに映画を撮る少年たちの物語だ。列車事故やエイリアンなどの諸要素は後になって付加されている。恐らく、作っているうちにエイブラムスの中のスピルバーグ・マインドが増大していき、SF要素が強まっていったのだとおもう。確かに、主人公たちの物語とエイリアンをめぐる物語がまったく有機的に絡んでいないことには驚く。私がざっと見る限り『Super 8』に対する否定的意見のほとんどがこの問題について指摘している。お互いほとんど関わりを持たず好き勝手動いていた主人公とエイリアンが終盤になっていきなり共感しあうのはおかしい、というものだ。公開前にやたらと『ET』が引き合いに出されたのは本作にとって不幸なことだった。基本的に『Super 8』のエイリアンは理解不能なモンスターのままだとおもうんですよ。快不快、敵味方といった人間側の倫理では規定できないグラデーションとして意図的に投げ出されている。ある面では対話可能な知的生命体だが、ある面では恐怖の人食いエイリアンだ。こうした曖昧さは『宇宙戦争』以降の典型的なエイリアン像だし、人間側の倫理と過度に馴れ合わない態度に私はむしろ好感を持った。
 ではエイリアンは少年たち(特に主人公)にとってどういう意味を持つのか。おそらく「映画の呪い」と言ってしまっていいのではないか。劇中でエイリアンが初めてはっきりと姿を見せるのは、スーパーエイトが収めた映像の中だ。もう1人、スクリーンの中だけで生きている存在がいる。主人公ジョー(ジョエル・コートニー)の母親だ。壁に投射した母親を見つめながら、ジョーが「こうしてるとママが死んだことが信じられない」と呟く(隣にエル・ファニングがいるのに!)。一見センチメンタルな場面だが、死んだ母親の映像を繰り返し見つめている少年の姿はどこか倒錯的だ。この時点で映画はジョーにとって「この世ならざるもの」を映すまがまがしい装置でもあるのだ。エイリアンはこうした映画の呪いを一手に引き受ける存在といえるし、幻影にとらわれたジョーの分身ともいえる。一方でジョーは映画を通して生身の人間アリス(エル・ファニング)との関係を築いてもいる。だから、エイリアンとジョーがアリスをめぐって対決することは必然なんですよ。ジョーは、幻影としての映画に淫することをやめて、現実の女の子の手をつかまなくてはいけない。彼はエイリアンを説得しながら、実は自分自身に語りかけているのだ。「映画の中のママはもうここにはいない」ということを。 
 クライマックスで、今にも飛び立とうとする宇宙船を人々が見上げている。もうこの「見上げる」という身ぶりがね、あまりにスピルバーグ的でちょっと笑ってしまう(そして泣いてしまう)わけだが、これはスクリーンを見上げる私たち自身の似姿でもある。この場面で、暗闇から明るいスクリーンを見上げることの幸福(そして宗教的なヤバさ)が提示される。大事にしていたペンダント(母親の思い出)が宇宙船に引っ張られ、ジョーが手を離す。ジョーが母親の幻影を「映画」に託した瞬間だ。生きていくことはつらい。あの映画の向こう側に行けたらどんなに素敵だろう。私たちにはただ涙を流しながら見上げることしかできない。だからこそ映画を作ること、見ることをいつまでたってもやめられない。エンドロールで流れるもうひとつの「映画」は、そんな愚か者たちへの祝福に満ちている。子どもたちの映画の中で、エイリアンをめぐる事件が単なる背景と化していることは重要だ。主役は子どもたちってこと。エイブラムスの自己愛と言われればそれまでだが、私は無邪気にゾンビ映画に興じる子どもたちのとびっきりの笑顔を信じていたいのだ。