Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

『恋の罪』(園子温)上

"Guilty of Romance"2011/JP

 かねてから苦手意識を持っていた園子温ではあるが、ここへきてはっきりと「嫌い」まで振り切れる作品に出合ってしまった。題材への浅はかさ、男根主義的なセックス観、過剰な露悪性、中途半端にブンガクをたしなむ俗物根性・・・すべてが辛かったですね。特に女性に対する勘違いぶりが本当に気持ち悪かった。平塚らいてうが憤死するレベルですね。このブログで否定的な感想を書くことは少ないのですが園作品に対する自分の立ち位置を整理する意味でも書き留めておきたいとおもう。言うまでもなくこれ私の考えなのでリテラシー低い人は読まないようにしてくださいね。『愛のむきだし』批判したときみたいに妙な揚げ足とりされるのはまっぴらなので。
 まず東電OL殺人事件をモチーフに女性を描くことに、そもそもの違和感があるんですよね。自宅アパートで殺害された東電のエリート女性社員は夜な夜な街に繰り出し客引きをして身体を売るという「裏の顔」があった…といういかにも俗物根性をかき立てる話ではある。ただ今日この事件について振り返るとき、それは事件そのものの特異性というよりも事件を扱うメディア側の異常性を指摘される場合がほとんど。社会学やメディア論としてですよ、松本サリン事件の冤罪報道と同じようにマスメディアの行きすぎた扇動の典型的な事例として取り上げられることが多いわけです。前作『冷たい熱帯魚』の元ネタになった愛犬家殺人事件のほうがよっぽど猟奇的で残虐な事件だったにもかかわらず、メディアの露出も一般の認知度も東電OL殺人事件の方が数倍上。要するにメディアは(私たちは)あの事件に発情していたんですよ。こうした分析が一般論としてもう出てるのに、いまさら「東電OL事件っていうえげつない事件があってさあ」って得意げに言われても、それは東電OL事件に発情するマスメディアに変わらないんですよね。いつまでやってんだっていう感じなんですよ。要するに昼間はエリートOLで夜は娼婦だった女性から、どす黒い欲望を抱えたままふつう生きている女性像を導きたいわけですよ。その安易な一般化がね、私にはがまんならない。
 とにかく園監督のセックス観をものすごい勢いで押しつけてくる映画なんですよね。それがとにかくレイプ犯の発想で、とにかく「女はえろいものだ。そしてそのえろい本性を引き出してやるのが男の能力だ」っていう安い発想。気に入らない女への悪口は必ず「あいつぜったい欲求不満でしょ」とか平気で言ったりする人、風俗とかAVの仕事をしている女の子はよっぽど心に何か抱えているかよっぽど淫乱かどっちかだろうとかおもってる人、AVで学んだテクニックがすべての女に通用すると思っている大学生とか、デリヘル嬢に無理やり生い立ちをきいて人生論垂れ始めるおっさんとか、AV女優と少し仲良くなったらすぐやらせろとか言うTVディレクターとか、そういう人たちに対する嫌悪感に似ているんですよね。この気持ちの悪さは。
 神楽坂恵演じる小説家の妻はすべてが手に入るけど満たされない毎日を送っている。ひょんなきっかけで性の世界に飛び込んだ彼女は"墜ちていく"ことで生の実感を得るようになる。さらに昼間を大学助教授をしながら夜は渋谷で客引きをしている冨樫真と出会い、彼女の性的な解放は加速度的に進んでいく。劇中の神楽坂の冨樫の関係性は、『冷たい熱帯魚』における吹越満とでんでんの関係性であり、さらにいえば『ファイト・クラブ』的な関係だといえる。自らの欲望の正体に戸惑う神楽坂に、冨樫はセックスを通して男性を支配するメソッドをたたき込んでいく。いわく「愛のないセックスはすべて金をとれ」。なるほど『ファイト・クラブ』でのタイラー・ダーデンは主人公に欠如した男性性(暴力や絶倫)を体現する存在であった。では冨樫は女性性を体現する存在か、冨樫は真に性的に解放された女性といえるのかといわれればそれはちょっとちがうとおもうんですよ。むしろそのセックス観は強烈な男性性に貫かれている。神楽坂は性的に解放されて自我を得たのか、いやいや結局は男にとって都合のいい女になったに過ぎないとおもう。彼女たちのセックス観には基本的に、女性側の快楽が欠如しているんですよ。男性は快楽を得るためにセックスするもの、女性は愛を得るためにセックスをするもの、というセックス観が前提になっている気がするんですよね。金を取るのは「男に快楽を提供した代償として」というわけでしょう?いやべつに女だって愛のないセックスで快楽を得てもいいじゃんね。真に抑圧から解放された女性ってそういうことでしょう。私は神楽坂が冨樫とのセックスにのめりこんでいくというのが一番納得のいく展開だったとおもう。「気持ち良くなるのに、精神的に満たされるのに、男なんて必要ないんですよ」っていうところまでいかないと納得できないんですよね。水野美紀演じる刑事が不倫してて言葉責め(これがまたAVで覚えた感じがしてすごください!)されて発情してるとか、どうも実在感がないというか、男性側のファンタジーにとどまっているというか。総じて女性が本気で自分自身の快楽を追及しているようには見えなかったです。
 それ以前に神楽坂演じる人妻の「満たされない」日常が、全然「満たされない」感じがしないんですよ。あの程度の空虚感、孤独感ですぐにセックスに依存するっていうのはそれが既に男性的なんですよね。構造はルイス・ブニュエルの『昼顔』と同じなのですが、『昼顔』のカトリーヌ・ドヌーヴは性に対する決定的な欠落感がある。だからああいう行動に至るまでに無理がないんですよね。まあ60年代ヨーロッパのブルジョア階級の人妻の抑圧と90年代日本のエロ小説家(津田寛治演じる小説家の「小説」がまたひどいんですよね。「鉄は熱いうちに打てといわんばかりに!」)の妻の抑圧を比べることじたいがナンセンスなんですけどね。金子みすずの「みんなちがって、みんないい」とSMAPの「もともと特別なオンリーワン」くらいにちがう。
 まあ正直に申し上げると、ポルノとしての実用性が作品の弱点を凌駕している瞬間もありましたよ。今だって勃起しながら酷評ですよ。神楽坂さんが夫に電話をかけながら後ろから犯されるシーンは屈指の「抜きどころ」だと思います。でもそれ『夫の目の前で犯されて』でなぎら健造監督がもっともっといやらしくバリエーション豊かに撮っちゃってるし、結局ポルノとしても中途半端だとおもうんですよ。表現をゲージュツかワイセツかと分けるつもりはありませんが、この映画はワイセツな需要を意識して作られているのにゲージュツであることを捨て切れていない。それはワイセツ表現を追及する人にも失礼じゃないでしょうか。だいたいこの映画で一番えろいのが神楽坂さんというのも問題なんですよね。本当に女性を描くのなら水野も冨樫も等しく魅惑的に撮るべきじゃないですか。全国の観客が神楽坂に発情していることを想像し優越感にひたりながら自分の嫁を抱く園子温のプレイに付き合わされている感じがするんですよね。ゴダールが「ヴァディムの映画は監督が主演女優と寝てるのが丸わかりだから見てても欲求不満になる。その点ヒッチコックは安心だよな」って超くだらないこと言ってますが、これは下品な見方でもなんでもなくて、観客が安心して映画の中のヒロインに恋をしたり、発情したりできる要素はだいじなことだとおもいますよ。