Devil's Own

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『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』(高橋栄樹)

"Documentary of AKB48(Show Must Go On)"2012/JP

 AKBさんのことは詳しくは知らないんですけど、この映画はタイトルからして絶対に私の好きなモノが映ってるぞと、嗜虐精神をむき出しにしながら見てきたわけです。期待以上の収穫でしたね。『エンジェル ウォーズ』顔負けの凄惨な少女の受難地獄絵図が繰り広げられていました。私はアイドル文化にはあまり詳しくないのでそういう視点からはまったくわかりませんが、この映画を見ると「労働」や「自己実現」のあり方といった普遍的なテーマにまで考えが及んでしまった。外野がとやかく書くのもどうかとおもって、沈黙を決め込むつもりだったのですが考えをまとめたいので書きます。
 西部ドームでのライブの壮絶なバックステージをとらえたチャプターはこの映画のハイライトだとおもうが、それがもう、本当に申し訳ないんですがおもしろいわけですよ。おもしろいんだけど同時にそれを素直におもしろがることには抵抗感もある。CMやバラエティで眩しい笑顔を振りまいているメンバーたちが過呼吸熱中症でばたばたと倒れていく。こんな映像を「商品」として消費してしまっていいものなのか。単に「商魂たくましい」というのはあまりにおぞましい映像の数々。彼女たちのピュアな肉体と精神を骨の髄までしゃぶりつくしてしまおうという作り手側の酷薄さを感じます。そして、お金を払って見ている私たちも、その暴力的な搾取に加担してしまっている。過呼吸でダウンした前田敦子さんがふらふらになりながらステージに登場し、息も絶え絶えMCをするんです。もう死ぬんじゃないかってくらいの迫力で。ところが一度暗転して曲が始まるとそこにはまばゆい笑顔を振りまくAKB48の顔「前田敦子」がいるわけです。このチャプターでの前田敦子さんへの眼差しは明らかに『ブラック・スワン』のナタリー・ポートマンを意識しているのですが、ノンフィクションだとわかっているだけに絶句するほかない。「アンコール」の歓声も魔女狩りか何かのようにまがまがしい(これも意図的に演出しているとおもう)。笑顔で「ナンバー2」を演じつづけた大島優子さんが舞台裏でついに号泣してしまう場面、被災地訪問で子どもから花束を受け取った峯岸みなみさんが「ちゃんとステージから降りて受け取るべきだった」と後悔する場面、「チーム4」のトラブルをめぐる生々しい人間関係・・・えげつないメロドラマが連発されるわけですが、私がもっとも衝撃を受けたのはほとんど全体の長といっていいほど大きな役割を占めている高橋みなみさんの存在です。コンサート前には掛け声で全体の士気をあげ、脇でひとり座りながらステージを見守り、総選挙後には楽屋廊下を駆け回りながら各メンバーのメンタルをフォローし、不安でたまらない「チーム4」の公演初日に応援のメールを送る。少なくともこの映画を見る限り彼女の行動はおしなべてAKB48全体への奉仕と直結している。ふつうの社会人としてもちょっとできすぎなくらいの自己犠牲精神だが、そこに抑圧された自我を想像すると不安になる。ほんと大丈夫かと。少なくともほかのメンバーに関しては、協調性と競争心を同時に(そして過剰に)要請される異様なシステムの中で自意識がきりきりとひずみを上げる瞬間が克明にえぐり取られているわけです。でも高橋みなみさんはシステムそのものとほとんど一体化してしまっている。彼女じたいが、システムのひずみとして存在しているようにおもえました。仮にAKB48の根幹をゆるがすような大きな問題が出てしまったときに彼女はまっさきに壊れてしまうのではないか。AKB48と心中しそうな勢いです。
 女の子たちの精神と肉体をずたぼろに酷使する、その途方もない摩耗の上にアイドル産業が成立していることはもうずっと前からなんとなくわかっていたことだとおもうんです。AKB48最大の功罪は、アイドル産業が抱えるこうした後ろめたい要素すらも表舞台に引きずり出せばエンターテインメントとして成立してしまう、露骨にいえば金になるということを発見してしまったことにあるのではないか。「総選挙」などその最たる例ですが、この映画も基本的にそうしたえげつないメソッドで作られたコンテンツです。この映画のおもしろさとは別に、その後ろめたさは受け手としてしっかりと心に留めておきたい。彼女たちの「一生懸命さ」や「ひたむきさ」は否定されるべきものではないですが、このビジネスじたいが異常な暴力装置であることはちゃんと認識しておかないとなとつくづく感じました。
 彼女たちの活動を労働ととらえるなら、その環境はほとんどブラック企業といっていい。映画の性格上、過度に演出されているのだと願いますが、たとえば西武ドームでの阿鼻叫喚を振り返って柏木由紀さんが「ぎりぎりの状態で気力だけ乗り切るのが気持ち良かった」みたいな発言をしていて、これではどこかのブラック企業社長の精神論と同じじゃないかと戦慄しました。しかし精神と肉体をずたぼろに酷使しなくてはまったく意味をなさない種類の「労働」があるのもまた事実なんです。個人的な話で申し訳ないですが、私は転職して賃金も休日も明らかに以前の職場より減った。労働環境は悪化しました。悪化したけど、前の職場には戻りたくない。というより私には今の仕事しかできない。今の仕事の過酷さが増していってもう我慢できなくなったらたぶんもう死ぬしかないし、それでもいいと思っている。周りが何といおうがどうでもいいんですよ。だから私には柏木さんが言っていることもよくわかる。わかるけど、そういう労働姿勢は称賛されるべきものでもないし、逆に批判されべきでもない、ましてや他人に強要すべきものでもない。もうそれしか言えないですね。
 エンドロールに登場するおびただしいメンバー数にめまいがする。そこには私が以前仕事で会ったことがある少女の名前もある。まだ大人とは言えない彼女が芸能界を目指したきっかけは、自分の意志とはいいがたいものだった。が、それが自分自身の目標と疑わずに今日も踊り続けているとおもう。成功不成功とは別にしてひとりでも多くの人が自分自身の欲望と意志をつかみとってくれることを願うばかりです。大人はたぶん全ての少女たちの責任までは取ってくれないから。