Devil's Own

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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(庵野秀明、摩砂雪、前田真宏、鶴巻和哉)

"Evangelion 3.0"2012/JP

 ネタバレリヲン新劇場版です。読み解きは他の人にお任せして印象論で書きます。
 劇中の碇シンジ君と同じように不親切なストーリー進行と膨大な情報量、新設定のつるべ打ちに振り回され、疲労感がどっと押し寄せてくる濃密な90分強。前作『破』で90年代的な閉塞や自意識から決別し、その方向性はさらに進むとばかり思っていたので、今作で再び「暗」に振り切れたことには驚いた。事前情報をまったく入れずに作品に臨んだが、直前まで血湧き肉躍る楽しい青春ロボットアクションアニメになるとすらおもっていました。聞けば、3・11以降にストーリーの改変があったそうで、確かに震災、原発事故後の気分は物語に影を落としている。庵野秀明の資質上そこに踏み込まないわけにはいかなかったということか。 
 戦闘シーンの分量はおそらくこれまでで一番多いのだが、状況説明がほとんどなされていないため、彼らがどんな目的でどこで何のために戦っているのかまったくわからない。したがって勝った負けたのカタルシスもないわけです。この混乱と居心地の悪さは、劇中の碇シンジに感情移入できるように意図的に演出されたものだとおもう。ミサトさんは前作で「行きなさい!」とまで言っていたのにどうしてあんなに冷淡な態度なのか。ミサトさんの硬化した態度(実際にはシンジへの甘さも描かれてはいるが)が作品の寄る辺のなさに大きく貢献している(ミサトさんですらこんな感じの世界ってそうとうキツいなと)。前作で劇的な成長を見せたシンジ君も元の自虐的な少年に逆戻りしてしまい、見ていて苦しかった。シンジは父親を始めとする大人たちの呪縛、ひいては90年代的な内省から解放されて他者との関係をつかみとっていったはずなので、また同じようなテーマを反復されるのはちょっとやり切れない。とはいえ、あのときのシンジの行動もゲンドウらには織り込み済みだったわけで、何かに「勝った」気になっている時点で実は大きな誤りだったのかもしれません。『破』における碇シンジの決断を完膚なきまでに否定することで、本当の「父殺し」を描こうという製作者の覚悟を感じました。ゼロ年代を経て成熟したつもりになった私たちの社会基盤が地震原発事故によって揺るがされてしまったということと無関係ではないかもしれない。まあ、それにしたって14歳の少年には酷薄すぎる現実である。庵野監督がとらえる世界はかくも救いがないものなのだろうか。
 キリスト教を始め作中にちりばめられたペダンティックな要素がエヴァの独自性だとすれば、『Q』はその真骨頂といえるだろう。次々と繰り出される「急」展開に観客の頭は「Q」uestionマークだらけ。「旧」劇場版のイメージを重ねながらもはっきりと違いを見せるラスト。鳴り響くベートーベンの第「九」。「Q」というキーワードだけを取り上げてもそれっぽい連想や読み解きを誘惑してくれる。さすがという感じである。私は『破』を見た後は本当に感動してしまって、劇場にもかなり通ったんですが、「エヴァを見た」という感覚は実のところ『Q』の方が強いとおもう。かなしいかな、この消化不良もまたエヴァを見るということか。ラストカット、荒涼とした地平をアスカ、シンジ、レイ(のような人)がとぼとぼと歩いていく。その後ろ姿は弱々しくはかないが、どこか希望のようなものも映している。次作で彼らは、私たちはエヴァの呪縛から解放され、相応に年を重ねることができるのだろうか。