Devil's Own

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シブヤ1997―『ラブ&ポップ』(庵野秀明)

Love & Pop/1998/JP

 『新世紀エヴァンゲリオン』第1話の時代設定は2015年6月22日。つい先日ようやく過ぎたばかりだ。セカンドインパクト使徒襲来もなかったか…と感慨にひたりつつ、はたして今の日本に碇シンジのような少年が存在しうるのかと考えた。もちろん現代にもシンジ君のようにナイーブな中学生はいるのだろう。だが『エヴァ』があれだけ熱狂的に迎えられたのは、シンジ君の抱える屈折があの時代、格別に共感できるものだったからだとおもう。 
 庵野秀明監督が初めて手掛けた実写映画『ラブ&ポップ』は1997年8月からわずか一か月で撮影され、翌年の1月に公開された。原作は、当時の社会現象だった女子高生の援助交際を取材した村上龍の同名小説だ。
 『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(いわゆる『夏エヴァ』)の公開は同年7月19日。「時代の寵児」だった庵野が、流行のトピックスで映画を撮る。とんだ「生もの企画」だ。実際、今の目で『ラブ&ポップ』を見返すとある種の経年劣化を感じずにはいられない。DVカメラを駆使した「斬新な」映像と編集、内省的なモノローグ、ルーズソックス、エリック・サティ川本真琴、ダンス、パソコン、歌の大辞テンダイヤルQ2…すべてがなつかしく、そして色あせている。それでも、いやだからこそ、この映画はほとんどドキュメンタリーのような生々しさで見るものに「97年」の気分を伝える。
 
 『ラブ&ポップ』は、東京郊外に住むごくふつうの女子高生、吉井裕美(三輪明日美)の一人称で進行する。裕美が友人らと過ごす休日の1日を、回想や幻想を交え、時系列で語っていく。その1日とは1997年7月19日。そう、「夏エヴァ」の封切日だ。
 37歳の内向的なおじさんが心身ともにぼろぼろになりながら、ようやく完成させた作品の公開初日、女子高生たちは能天気に渋谷に水着を買いに出かける…。この残酷な断絶。わざわざこの日を舞台に選んだことに、「おじさんと女子高生は理解しあえない」という庵野の冷徹で謙虚な前提が透けて見える。だいいち原作にしたって所詮は「おじさんが書いた女子高生の物語」なのだ。
 決して理解しあうことはないように見えるおじさんと女子高生は、しかし「援助交際」という特殊な結びつきの中で近接する。村上龍は女子高生の視点を借りて、日本中の誰もが抱えていた疎外感、空白感を切り取った。そして当時、それを誰よりもクリアに視覚化できた映像作家が、おじさんと女子高生の交差点に立つ庵野だったとおもう。
 一見すると、裕美の「主観」に見えるが、巧みに「客観」が介在する。カメラは、裕美の衣服や電子レンジの中などあらゆる場所に忍び込み、彼女の日常を「観察」する。主役の三輪本人ではなく、映画監督の河瀬直美がモノローグを担当することで微妙なズレを生んでいる。
 過剰な情報を受け取りながらも、見る者は主人公・裕美の心の中になかなか立ち入ることができない。それどころか、彼女の生活と心を、物陰から覗き見ているかのような居心地の悪さがつきまとう。会話シーンを中心に「ナメ」の構図が多用されるのも、作品の窃視性を際立たせる。
 こうした居心地の悪さは、作品の主要なテーマにも関わっている。「さびしさ」こそが本作の基調になっているからだ。市川崑に直球のオマージュをささげたタイトルクレジットの直後、裕美のこんなモノローグが入る。 

世の中のものは唐突に変わるときがある
男も女も 大人も子どもも お父さんだって2回変わった人がいる
生きていた人もある日、お墓や写真に変わる
目に見える形がいつの間にか消えてなくなっていく
心の中のかたちも変わっていく
あいまいになっていく

 物事や感情が時とともに乱暴に移り変わっていくことの怖さとふしぎさ、そしてさびしさ…。移ろいゆくものへのささやかな抵抗として裕美はカメラを手にする。
 消費と享楽の時代が終わり、急速に情報化が進んだ90年代、人々は「変わらないもの」を失い、孤独を深めていった。ある人は援助交際に、ある人はカルト教団に「変わらないもの」を求めた。裕美の高校の友達、ナオ(工藤浩乃)、サチ(希良梨)、チーちゃん(仲間由紀恵)も「変わらないもの」をさがし、もがいている。
 プロダンサーの夢へ踏み出すサチの言葉を聞き、裕美は「アンネの日記のドキュメンタリー」を見た日を思い出す。

恐ろしくて、でも感動して泣いた
いろいろ考えて、心がぐしゃぐしゃだった
でも次の日には、心がすでにつるんとしている自分に気づいた
自分の中で何かが「済んだ」感じになっているのが
不思議で、いやだった
サチはきっとその感じがいやでダンサーになる決心をしたんだと思う


裕美の「さびしさ」が丁寧につづられる序盤の30分をへて、物語の推進力となる「指輪」が登場する。「心がどきどきする」。恍惚に浸りながら裕美は、その気持ちが時間とともに失われることを経験的に悟る。指輪はきょうのうちに手に入れなくてはいけないし、その方法は援助交際しかない。その考えは端的に間違っている。間違っているのだが、これまでの物語の積み重ねが彼女のモチベーションに説得力を持たせている。さりげなくちりばめた「手」をめぐるイメージも効果を上げている。ほかの3人の協力を得て、すぐに購入資金12万円を得るが、裕美は受け取れない。理由は「みんなと対等でいたかったから」。3人に対する裕美の劣等意識が語られているため、すんなりとのみ込める。裕美はほかの3人と別れ、自分一人の力で指輪を買うと決意する。
 「さびしさ」はむしろ、援助交際をする男たちの方に顕著だ。原作者や監督にとって、女子高生の主人公たちより、彼女たちにカネを払うおじさんたちのほうがよっぽど理解しやすいのかもしれない。俳優陣も実力派かつ個性派ぞろいで作品に奥行きを与えている。

しゃぶしゃぶの男、ヤザキ(モロ師岡)。道端で裕美とサチに声をかけ、しゃぶしゃぶをごちそうしながら説教を垂れる。

グルメの男、ヨシムラ(吹越満)。道端で裕美とナオに声をかけ、自宅マンションで手料理をふるまう。

マスカットの男、カケガワ(平田満)。裕美たち4人が口に含んだマスカットを計12万円で買い取る。

レンタルビデオの男、ウエハラ(手塚とおる)。自分を馬鹿にしている(と思い込んでいる)レンタルビデオ屋の店員に見せつけるため、裕美に恋人のふりをしてほしいと依頼する。

キャプテン××の男(浅野忠信)。『キャプテンEO』のファズボールとみられるぬいぐるみと会話する奇妙な男。裕美とラブホテルに入り、ひどい目に合わせる。

携帯電話の男、コバヤシ(渡辺いっけい)。裕美が援助交際で使う携帯電話の持ち主。ゲイの物書きで、援助交際相手としては関わらないが、「キャプテン××の男」の発言の解釈を、裕美に教える重要な役割を担っている。
 孤独とコンプレックスを抱えながら、女子高生にカネを払い、欲望を成就させようとする。援助交際という関係でしか自分をさらけ出すことのできない哀れで滑稽な男たち。どいつもこいつもろくでなしだが、私には彼らの孤独や鬱屈がわかる気がする。女子高生の冷たい視点を通して描かれる男たちの群像にこそ、本作の真骨頂があるのではないか。
「キャプテン××の男」から怖い目にあわされ、裕美は指輪を手に入れることに失敗する。自宅に戻り、バッグの中に指輪を探すがもちろん見つからない。カメラからフィルムが抜き取られていることに気づき、再び装填しようとするが、途中でやめてしまう。もはや写真では「今」をつなぎとめることはできないと気づいてしまった。ここで、ナレーションの河瀬と裕美役の三輪が、劇中で初めて言葉を交わし、文字通りの「自問自答」が始まる。河瀬のモノローグは欲望とさびしさの関係について説明する。

自分には何かが足りないと思いながら、友達とはしゃぐのは難しい。
何かが足りないという個人的な思いはその人を孤独にするから。
時がたてば、あの指輪とのつながりもゆっくりと消えていく。
何ががほしい、という思いをキープするのは、その何かが今の自分にはないという無力感をキープすることで、
それはとても難しい。

「きっと私にはできない」。自信喪失した裕美は、空のフィルムケースの中に「キャプテン××の男」のメッセージが入っていることに気づく。「お前だけに教える××の本当の本名 ミスター ラブ&ポップ」。ファズボールのぬいぐるみ付けた彼だけの「本名」だった。裕美が尋ねても、教えようとしなかった名前を、なぜ教える気になったのか。
ヒントとなるのはせりふに登場する映画『シベールの日曜日』だ。裕美がウエハラと入ったレンタルビデオ屋でも一瞬だけパッケージが映る。原作は、裕美が「『シベールの日曜日』を今度見てみよう」と考えるところで締めくくられる。
 1962年のフランス映画『シベールの日曜日』は、傷ついた戦争帰還兵の男と孤児院の少女の心の交流をつづる。二人は互いの孤独を持ち寄り、疑似親子とも、恋愛とも説明できない特別な絆を深めていく。クリスマスの夜、少女は初めて自分の名前を男に明かすが、二人の「異常な関係」は社会に断罪され、男は殺されてしまう。村上龍は、「キャプテン××の男」と裕美の関係を『シベールの日曜日』になぞらえ、両者の孤独と共感にある種の「希望」を描こうとした。いびつで、出来損ないの「希望」である。
 村上は原作のテーマを「前駆的な希望」と説明する。確かに現代社会のなかに「希望」を見つけることは難しい。「希望」という言葉だけはあふれているが、誰も具体的に示すことができないし、そんな大人たちのウソを女子高生たちは敏感に見抜いている。だけれど、いつかは希望になれるかもしれない「前駆的なもの」いわば「希望の胎児」なら、物語で提示できるのではないか。そんな思いで小説を書いたという。

 映画『ラブ&ポップ』に「希望」が映っているとすれば、それは間違いなくエンディングだろう。三輪明日美が歌う調子っぱずれの「あの素晴らしい愛をもう一度」に合わせ、主役の4人が渋谷川を歩く様子を、長回しのドリーショットでとらえている。全編をDVカメラで撮影した中で、エンディングだけは35ミリフィルムで撮っている。だからフィルム上映で本作を見たとき、粗いキネコ映像が、エンディングで一気に鮮明になる。画面サイズも広がり、開放感をもたらす。じっさい脚本には「フィルムのありがたみを感じる観客」というト書きまであった。
当初は、まったく別のエンディングが準備されていた。主人公4人が砂浜で遊んでいる映像に、山口百恵の「ひと夏の経験」(曲を選んだのはプロデューサーの南里幸)が流れるというものだ。じっさいに宮古島ロケで撮影までされたが、ボツになり、渋谷川のバージョンに差し替えられた。結果、日本映画史に刻まれるエンディングになった。
 もしエンディングが当初の予定通りだったとしたら、『ラブ&ポップ』はひどくつまらない映画になっていただろう。海辺ではしゃぐ4人がどんなに楽しそうだったとしても、その姿は「希望」になりえないからだ。見るからに汚い渋谷川を4人の少女が前を向いて、歩く。水しぶきを上げ、泥まみれのルーズソックスで、不機嫌そうに、退屈そうに。彼女たちが生きるのは、宮古島の海岸なんかじゃない。渋谷のどぶ川のように、みじめで冷たい世界だ。それでも立ち止まらず、振り返らず歩く。不ぞろいな歩みとへたくそな歌謡曲。だけれど私はいつも、そこに確かな「希望」を感じるのだ。

ラブ&ポップ SR版 [DVD]

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ラブ&ポップ 特別版 [DVD]

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 現在、販売されているソフト(SR版)はデジタル映像をそのまま収録しているので、フィルム上映の衝撃を追体験することはできない。1999年に発売されたDVD(特別版)だけは唯一、キネコ版を収録している。もし、このエントリを読んで『ラブ&ポップ』に興味を持たれた人がいたらこの特別版DVDを見るのがおすすめです。もちろんこの先、フィルムで映画がかかることがあれば、何にも差し置いて見に行くことを薦めます。