Devil's Own

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『悪魔のいけにえ』(トビー・フーパー)

The Texas Chain Saw Massacre/1974/US

あまり怖いものが得意ではない恋人が『悪魔のいけにえ』の爆音上映に付き合ってくれた。「ほんとうに大丈夫?」と何度か念押ししていたけれど、見終わったあとは案の定青ざめた表情で「怒らないで聞いてほしいんだけど…苦手」と肩を落とした。そうだよなあ、そうなるよなあ。でもなんだかはっとさせられもした。くりかえし見ているうちに、すっかり忘れてしまっていたけれど、私も初めてこの映画を見たとき、安酒を飲み干したような激しい悪寒と吐き気に襲われたのだった。『悪魔のいけにえ』の今日的な評価とか映画史的な位置づけなど知ったこっちゃない人間の、ごくまっとうな反応に触れたことで、この映画がほんらい持っている「毒」を思い出した。
 『悪魔のいけにえ』の魅力を伝えることは難しい。私も好きな映画について、へたくそなりに言語化しないと気が済まないたちだけど、不快な金切り声と野蛮な暴力が吹き荒れるこの映画を前に、お行儀のいいモラルやロジックは無効化してしまった。それなのに、この映画が心に残した傷跡は、いつまでもズキズキとうずき、うみとなり、そのうちかけがえのない映画体験に変わっていた。

 酷暑につつまれた真夏のテキサスで、何者かが墓を暴き、遺体でオブジェをつくる異常な事件が頻発していた。太陽の表面爆発をとらえたタイトルバックにラジオのニュース音声が重なる。石油施設の爆発、蔓延する伝染病、若者の自殺、警官への暴行…といやなニュースばかりが報じられる。焼けつくようなアスファルトの上でアルマジロが野垂れ死に、そのうしろを一台のバンが通り過ぎていく。あまりの暑さにアメリカ全体に狂気と暴力が充満しているような強烈なオープニングで、『悪魔のいけにえ』は幕を開ける。泥沼化するベトナム戦争を背景に、じっさいこの時期のアメリカには狂気と暴力が吹き荒れていた、と私はおもう。
 バンには、サリー、ジェリー、フランクリン、カーク、パムの4人の若者が乗り組み、かつてサリーが住んでいた家へと向かっている。サリーとジェリー、カークとパムは恋人同士で、車いすに乗ったフランクリンはサリーの兄(弟)だ。ハイウェイの脇には、牛を殺し、食肉へと加工する工場が建っていた。屠られる牛たちの糞尿とよだれ。まがまがしい「死のにおい」がバンのなかに侵食してきたとき、若者たちは泥沼のような悪夢にはまりこんでいく。きちがいじみたヒッチハイカーに遭遇し、ガソリンが尽き、川の水は涸れ、不自由な巨体を持て余したフランクリンが不満をたれながす。暑さと渇きが画面をむしばみ、じりじりとした苛立ちが募っていく。
 16ミリフィルムの粒子の粗い画面から、一見してプリミティブで粗削りな印象があるが、くり返し見ていると、その編集や音響設計は細部まで計算し尽くされていることに気がつく。『悪魔のいけにえ』には若きフーパーの才能と心血がほとばしっているが、決して若さと勢いだけで作られたわけではないようにおもう。レザーフェイスの初登場シーンは、撮影、編集におけるフーパーの天才が味わえる名場面だ。極限まで煮詰めた狂気と暴力が一気に噴き出し、映画は加速度的にドライブしていく。

 ガソリンを譲ってもらうため、カークとパムは白い家を訪ねる。うなりを上げる自家発電機、木にぶらさげられた奇妙なオブジェ、乾いた音を立てて転がり落ちる人の歯。カークが玄関から中をのぞくと、奥の部屋の壁に牛の頭蓋骨が飾られている。平凡な家のすきまから、完全にヤバいものがだだ漏れている。観客からすれば、もう明らかに「入っちゃダメ」って感じがしてる。それなのにカークは家の中に足を踏み入れてしまう。廊下でつまづいたとき、ほんとうに突然、なんの脈絡もなく「やつ」が登場する。画面がカークの主観ショットに切り替わり、カメラは肉屋のエプロンを身に着けた大男をゆっくりと見上げる。映画史を代表する殺人鬼、レザーフェイスのお出ましだ。次の瞬間、まるで牛をたたき殺すようなすみやかさで、カークの脳天にハンマーが振り下ろされる。昏倒し、けいれんを起こすカークに、これまた冷静な手つきでとどめの一撃を食らわせる。この身もふたもない手際のよさ。人を殺すというより、ものを壊すような即物性に慄きながら、私たちは理解する。ああ、この大男にとって私たちは人間ではなくて、一匹の動物…屠られる肉塊にすぎないのだな、と。

 パムもまた「魔の家」へと引き寄せられていく。ブランコの下をくぐりぬけ、パムの背中を追い続けるカメラが、夏空と白い家を映し出す。劇中でもっとも恐ろしく、美しいショットのひとつだ。私たちもまた、この家の磁場から逃れられない…そんな気持ちにさせるし、まるで家の方からこちらに迫ってくるようにも見える。もはや抜けるような夏の空も、牧歌的な白い家も、つい数分前とは違ってまがまがしいものに変わっている。家に足を踏み入れたパムは、おびただしい人や動物の骨でつくられた異常な芸術作品を目にする。美術のロバート・A・バーンズが作り上げたこの部屋は、おぞましくも独自の美意識を感じさせる。吐き気におそわれたパムはすぐさまレザーフェイスにつかまり、またもや家畜のように食肉用のフックに吊るされる。そして目の前では恋人がチェーンソーで解体されている。『悪魔のいけにえ』には鮮血や切り株といった直接的なゴア表現はほとんどないが、見る者の痛覚は刺激される。「見せない効果」を熟知した恐怖映画の正統なマナーが貫かれているんですよね。

 夕暮れ時にはジェリーが白い家を訪ね、レザーフェイスの犠牲になる。ジェリーを撲殺したあと、窓際に座って頭を抱えるレザーフェイス。あきらかに途方に暮れていて、「なんで俺がこんな目に」とでも言わんばかりだ。レザーフェイスの意外な臆病さが垣間見えて、映画全体も奇妙なユーモアを帯び始める。この場面を契機として、物語の主役は5人の若者たちから、得体の知れない殺人一家にシフトしていく。じっさいすぐ後にフランクリンもあっけなくレザーフェイスに殺され、以降サリーはほぼ最後まで絶叫し、逃げ回っているだけだからだ。
 反対にはじめは狂った異物でしかなかったレザーフェイスやヒッチハイカーは、彼らなりの倫理観や哲学、常識の中で生きていることが明らかになってくる。レザーフェイスはサリーの絶叫にびっくりしたり、ドアを壊したことを兄のコックに叱られたりと、ほとんど臆病者のようだ。人皮マスクや服装も、肉屋スタイルだけではなくて、料理をするときは母親風、食事をするときはスーツといった具合に、彼なりのこだわりをうかがわせる。フランクリンが使っていた車いすが、きれいに畳まれてキッチンに置かれているのもいい。「レザーフェイスが片付けたのかなあ」と想像するとなんだかほっこりした気持ちになる。『悪魔のいけにえ』が今も色あせない魅力を放っているのは、レザーフェイスをはじめとする狂った殺人一家が、愛すべき人間くささをまとっているからではないか。
 細かいしぐさやせりふ、小道具から一家の「人間性」がのぞき、こわいと同時に、そこはかとなく可笑しい。この映画をコメディとして見る人もいるとおもうし、じっさい作り手も意図して笑いの要素を取り入れていた。映画はどんどん悪ノリを増し、恐怖と笑いがせめぎあう狂ったパーティーへとなだれ込んでいく。切り傷からサリーの血をチュウチュウと吸いながら爺様が軽快に踊りだす。気絶したサリーが目を覚ますと、今度は干し首のランプやニワトリの頭で飾られたテーブルで一家が食事しているという、さらに狂った光景が広がっていた。ふたたび絶叫するサリーと歓喜の声を上げる一家…見ているこっちがおかしくなってきそうだ。サリーの目の前にはごていねいに食器が並べられている。レザーフェイスが準備したのかな、と想像できてやっぱりちょっと笑える。

隙を突いて逃げ出したサリーが、窓を突き破り、ついに家の外に脱出する…!文字どおり目が覚めるような鮮烈な場面転換。夜は明けて、悪夢は終わろうとしている。サリーを追ってきたヒッチハイカーはトレーラーに豪快に轢殺され、レザーフェイスはチェーンソーで自分の太ももを切って悲鳴を上げる。命からがらに逃れた血まみれのサリーは、けたけたと高らかに笑う。彼女もまた一家の狂気にからめとられてしまったのだろうか。そして、映画史に刻まれるラストシーンがくる。朝日をバックにチェーンソーを振り回しながら踊るレザーフェイスを映し、画面が唐突に暗転。ようやく訪れた暗闇と静寂の中で、私たちは安堵のため息をつく。だけれど、83分で脳裏に焼き付いた悪夢からは、もう逃れることができない。