Devil's Own

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ポルノカルチャーと私

ジェームズ・ガン監督の「解雇」騒動を受けて、「残念だな」という以上に、なんだか他人事ではないなあと思って、過去にアップした記事を数本削除しました。2011~14年の年末に書いていた「アダルトビデオの年間ベスト」という下世話な記事です。

 自分がどうやら普通の成人男性よりもアダルトビデオを見ているらしいと気づき、せっかくだから自分なりのレビューを記事にしてみようと軽い気持ちで書いたのがきっかけだったのですが、なぜかブックマークが異常に伸びて、一時期はこのブログでもっとも閲覧されているエントリーとなっていました。私は元来、調子に乗りやすいタイプなので、予想外の反響に気をよくして、4年連続で同様の記事をアップしました。

 途中でやめてしまったのにはいくつか理由があります。私がアダルトビデオをあまり見なくなったから…といいたいところなのですが、実はそういうわけでもなく、いまもDMM.R18のヘビーユーザーです。

 主な理由の一つ目は、「AVの出演強要」が社会問題化したことです。自分なりにアダルトビデオの現場で働く女優さん、男優さんに敬意を払い、彼女ら、彼らのプロフェッショナルな仕事を評価しようとつとめてきたつもりだったのですが、どうやら私が考えているよりも、業界では不正があるらしい。好きだった女優さんの作品が一挙にDMMから削除されたのにも驚きました。堂々と仕事をしているように見えた女優さんでも、フェアでない契約や過酷な労働環境に傷ついていたのかもしれない。ポルノを「フィクション」として楽しむ前提が崩れてしまったように感じました。

 もう一つは、「ベスト作品」として性暴力をあつかった作品を多く取り上げていた点です。ここ数年、私自身、ポルノと性暴力や性差別について考えるようになりました。もっと広い意味での差別、といったほうがいいかもしれません。女性だけでなく、同性愛者や障がい者、外国人などさまざまなマイノリティとのかかわりについて以前より深く考えるようになったのです。現実、あるいはネット上でさまざまな人たちの意見や考え方に触れ、私も少しずつ大人になりました。「自分は自分の思っている以上に差別的な人間だ」と考えるようになった。もっと言いますと、一人一人のこうした自覚と内省によってしか、差別をなくすことはできないと気が付いたのです。

 性暴力をポルノとして消費する心の根っこには、女性差別、女性蔑視的なメンタリティがあるとおもいます。「いやいやそんなことはない、フィクションと現実は別物だ。だって現実の僕は女性差別をしていないじゃないか」。そんなふうに考えていた時期もありました。暴力的なポルノに影響されて、自分の恋人に同じようなことをしてみたいと思ったことはないからです。それでも、性暴力をポルノとして消費する私のなかには「女性をモノのようにあつかいたい」という暗く、卑しい欲求があることは否定しようのない事実でした。こうした欲求が、私を性暴力に走らせたことはないし、これからもないとは思います。ですが、その欲求は、たとえば恋人との口げんかとか異性の同僚とのジョークとか、ささいな日常のなかにきっと歪みを生み出す。私は、私の後ろ暗い欲望をもっと自覚し、つねに批判的に正そうとする努力すべきだと思っています。

 おそらく近未来のうちにアダルトビデオの市場は縮小、変革すると思います。いわゆる「本番行為」はなくなるのではないでしょうか。「男性の性欲を満たす映像コンテンツで、女性は実際にカメラの前でセックスしなくてはならなかった」という事実が、「前時代」の象徴として語られる日がくるかもしれません。

 私はいまも、日本のポルノカルチャーを愛しています。それでも文化や表現はつねに「よいもの」へと進化していくべきだと考えています。映画の歴史だって、白人至上主義にまみれた『国民の創生』で始まり、そしていまも不合理と不平等とたたかい、進化し続けています。ポルノにだってやれる。じっさいに変化はおきています。暴力的な作品は少しずつ減少していますし、児童ポルノをほうふつとさせるジャンルも自粛傾向にあります。女性向けのアダルトコンテンツも増えました。

 私の願いは、これまで、そして今も、ポルノを歴史をつくっているすべての女性と男性の尊厳が、彼女・彼らが望むかたちで保たれることです。そして安易な過激化とは違う形で、ポルノカルチャーが多様化していくことを望んでいます。