Devil's Own

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子どもたちのさけび―『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(本多猪四郎)

"Frankenstein Conquers the World"/1965/JP-US

 あらためて明けましておめでとうございます。去年は本当に忙しくて、ブログの更新が4回しかできませんでした。ことしはもう少し書けるといいな。
 それで今年の1本目に選んだのは本多猪四郎監督、円谷英二特技監督による東宝特撮怪獣映画の異色作『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』です。言わずと知れた名作ですが、昨年晴れてBlu-ray化されました。姉妹編であり、こちらも名作と名高い『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966)と比べるとずいぶんと遅いリリースでした。喜び勇んで購入したわけですが、わざわざBlu-ray化したと思えないノイズの多い画質にとてもがっかりした。東宝にはもっと過去の名作とそれを今も愛する人々に敬意と誇りをもって商品を作ってほしいですね。

 ソフトは残念ですが、映画は一級品です。東宝怪獣映画で米国と初めて合作の形をとった本作は元々、20世紀フォックス東宝に持ち込んだ「キングコングフランケンシュタイン」という企画が基になっている。「アメリカの二大怪物のドリームマッチを、『ゴジラ』で有名なニッポンの映画会社につくらせよう」という発想じたいが、映画『キングコング』の興業屋のそれで笑えるが、とにもかくにも、この企画からまず『キングコング対ゴジラ』(1962)が産み落とされた。残ったフランケンシュタインの相手としてはじめはガス人間が選ばれ、『ガス人間第一号』(1960)の続編映画の企画が持ち上がった。その後、「やはりゴジラだ」となったのかは知らないが、ゴジラ映画の新作「ゴジラフランケンシュタイン」という企画をへて、最終的に新怪獣バラゴンが登場する企画に落ち着いたということです。
 物語は第二次世界大戦末期のドイツから始まる。毒々しい色の液体が入った試験管やフラスコが並ぶ、いかにも東宝チックな研究室にナチスの将校たちがずかずかと上がりこみ、なにやら大きなトランクを没収していく。ナチスはこのトランクをUボートで運び、日本軍の潜水艦にトランクを引き渡した直後、連合軍に撃沈される。中身を知らされないままトランクを広島の病院に運んだ海軍大尉・河井(土屋嘉男)は、軍医(志村喬)からトランクの中身がフランケンシュタイン(人造人間)の心臓であり、「弾に当たっても死なない兵士」を開発するための日本軍の切り札だと聞かされる。しかし、その研究はアメリカによる広島への原爆投下によって中絶してしまうのだった…。

 怪奇ムード満点のスタッフクレジットに、ドイツ語が飛び交う緊迫の心臓移送シーン、連合軍の空爆や原爆投下の特撮など冒頭からスペクタクルにあふれ、土屋、志村ら東宝映画おなじみの名優たちがかもし出すアダルトな雰囲気もたまらない。撮影前に本家『フランケンシュタイン』(ジェームズ・ホエール監督、1931年)を見返し、「厳粛な気持ちで演出した」と振り返る本多監督の気概が伝わってくるようだ。原爆投下前の広島市街地の遠景はマットペインティングと実景の合成だろうか。破壊される前の原爆ドームが描かれてる。『ゴジラ』をはじめ昭和の特撮作品では原水爆が重要なファクターとなっていることが多いが、直接的に原爆投下が描かれた作品は実はめずらしいのではないだろうか。

 時は流れ、戦後15年の1960年。本作の主人公であるボーエン(ニック・アダムス)、季子(水野久美)、川地(高島忠夫)の3人は原爆症患者の治療に当たりながら、放射性物質の研究をしている。両親を原爆で失い、自らも重い原爆症を患う少女、田鶴子(沢井桂子)は登場は短いが、本作のテーマの根幹に関わる重要なキャラクターだ。「あの子の人生って何と言ったらいいんでしょう」ととあわれむ季子、「死にましたか」とかなり淡々と確認する川地、「われわれの科学ではまだ田鶴子さんを助けることはできない。われわれは、悲劇から何としても平和と幸福を引き出さなくてはならない」と奮起するボーエン。田鶴子に対する3人の態度に、すでに研究者としてのスタンスの違いが鮮明に描かれている。
 季子は自宅の近くで、犬を殺して食べる「浮浪児」を中年男性が追い掛けているところに遭遇する。ちまたではウサギのバラバラ死体が小学校で見つかる怪事件も起きていた。季子の口から当たり前のように出てくる「浮浪児」という言葉に面食らうが、中年男性の言う通り、身寄りもなく、住む場所もない戦争孤児は、終戦直後の日本にはあふれていたに違いない。原爆で大量の人々が殺りくされたまちであればなおさらのことだ。
 本作におけるフランケンシュタインは、まさにそうした子どもたちのメタファーではなかったか。戦争と原爆で、親を殺され、自らも傷つき、貧困と差別にまみれた幾人もの子どもたち。その証拠に季子とボーエンは、田鶴子の命日に墓参りに出かけた先で、引き合わせたようにフランケンシュタインの少年と遭遇し、連れ帰ることになるのだ。
 2人が保護した少年は白人種で、生まれてすぐ被爆したのに、原爆症にならず、むしろ強靭な肉体をそなえていた。取材している記者の「パンパンが生ませた混血児ではないか」というせりふや「放射能に強い怪童」のという新聞見出しも、時代とはいえ、すごい神経である。まだスペル星人が封印される前である。記事を読んだ元海軍大尉の河井から「フランケンシュタインの心臓」の情報がもたらされ、この少年が人造人間である可能性が浮上する。だが、それを確かめるには手足を切断するしか方法がないという。

 ボーエン、季子、川地の違いについて書いたが、この作品がすぐれているのは、3人のキャラクターづけが、単純化された書き割りに陥っていない点だ。季子は少年を「坊や」といってかわいがるが、最後まで彼に名前をつけることはない。豪雨の中、タクシーに轢かれたフランケンシュタインに彼女が初めて食事を与えるシーンを思い出そう。窓からパンを投げ与える水野久美の表情と所作は、慈愛に満ちていて、とてもうつくしい。その一方で、温かい食事が並ぶ季子の部屋と冷たい雨が降りしきる路上の間には踏み越えられない断絶がある。季子はフランケンシュタインを「自分たちと同じ人間」と主張し、おそらく彼女の母性愛には嘘はないはずが、どこか捨てられた子犬に接するような偽善性も透ける。
 フランケンシュタインを研究対象として見ている川地はどうか。「彼は普通の人間ではない」と言って手足を切断することに賛同したり、手首が手に入るとフランケンシュタインを殺すことを「やむを得ない」と言い出したり、その言動は冷淡にも思えるが、一人でフランケンシュタインの手足を切断しようとする前に、ためらって酒をあおり始めるなど、人間くさい一面も見せる。
 両極端である二人の間に位置するボーエンもまた複雑な背景を持っている。ボーエンは季子に、自分がかつて原爆の製造に携わり、「人類を滅ぼすのではなく、再生させることに生涯をささげたい」と日本にやってきたと明かす。一方で研究に行き詰まり、もう一度アメリカに帰って一からやり直そうか迷っているとも…。アメリカ市場への配慮もあってか、周到に言葉を選んでいるが、ボーエンが自身の過去に激しい贖罪意識を抱えているとみて間違いないだろう。アメリカが科学の粋を集めて発明した兵器は、投下から15年たった今も人々を苦しめ、科学はその苦しみを癒すことができない。放射能を克服したフランケンシュタインの存在は、ボーエンにとって希望である一方で、原爆に傷ついた子供たちの怨念を背負った呪いでもある。

 テレビクルーの撮影用ライトにおびえて暴れだし、病院から逃亡したフランケンシュタイン。季子のアパートを訪れるシーンでは、行き場のない怪物の孤独と哀しみ、怪物への愛着と恐怖の間で揺れ動く季子の心情がみごとに表現されている。巨大になった体を持て余し、すがるような表情で季子を見つめるフランケンシュタインだが、季子が一瞬だけひるみ、後ずさりするのを見て、自分への恐れを感じ取り、アパートを立ち去る。本作では、特撮シーンと本編が高度な受け渡しがいくつも見られるが、正攻法のカットバックにより描かれた怪物と美女の切ない別れの場面は、本多と円谷によるあうんの呼吸と、古畑弘二と水野の名演により、その頂点を極めた場面といえるだろう。

 逃亡中もフランケンシュタインはぐんぐんと成長していくが、同時に地底から現れた怪獣バラゴンも暗躍する。実はバラゴンは作品の本筋にはほとんど関係がない敵役のための敵役、といったキャラクターだ。バラゴンさえいなければ、フランケンシュタインには別の未来が待っていたのかもしれない。とはいえ、バラゴンの登場シーンもまた東宝特撮ここにありとでもいうべき、ディテールと工夫にあふれている。山小屋を襲うシーンの見事な合成、養鶏場のニワトリが映し、直後にバラゴンの口から羽毛があふれる鮮やかなカット割り。モンスター映画としての「怖さ」を感じさせてくれる。狛犬をヒントにしたとされるバラゴンのデザインもシンプルながら愛嬌と造形美にあふれた傑作といっていいだろう。蛇腹状の背中が特徴的な着ぐるみはその後、『ウルトラQ』のパゴス、『ウルトラマン』のネロンガ、マグラー、ガボラと再利用されたこともあり、地底怪獣の一つの定番フォルムとなった。クローズアップ用マスクでの目がぎょろぎょろと動くギミックもよくできている。余談ですが、私の実家はパグを飼っていて、つぶらな瞳とひしゃげた顔がよく似ているので、愛着を感じてしまいますね。

 バラゴンとフランケンシュタイン日本アルプスでついに激突する。ワイヤーワークや光線技を導入した緩急自在なアクションも見どころだが、最大の魅力は、着ぐるみ怪獣と生身の(しかもほとんど半裸の)俳優がぶつかることで生まれる緊迫感だろう。バラゴン役の中島春雄は、すでに名人芸ともいえる円熟した怪獣演技を見せるが、新人の古畑も豊かな表情と身体性で画面を走り回る。フランケンシュタインが季子たちを救う展開や、巨人を人間の視点から見上げるカットには、1年後に放映される『ウルトラマン』の萌芽を見出せる。
 死闘の末に辛くもバラゴンに勝利したフランケンシュタインだったが、直後に地割れに巻き込まれ、雄たけびを上げながらのみこまれていく。最後に何を伝えたかったのだろうか。考えるといつも苦しくなる。多くの人々にさげすまれ、恐れられ、行き場をなくしながらも、わずかな仲間たちのために戦い、ついには名前すら呼ばれることもなかった英雄の悲しい最期である。「死んだほうがいいのかもしれない所詮彼は怪物だ」というボーエン博士の言葉が重く響く。

 フランケンシュタインは架空の怪物だ。だが、彼と同じような子供たちはおそらくたくさんいたはずなのだ。戦争と原爆にすべてを焼きつくされた世界で、棄民のように扱われ、 自分が何者かもわからないまま、歴史からも、人々の記憶からも消え去っていった子どもたちが、確かに、いた。救いようのない彼らの悲しみと怒りを少しでもつかみたくて、みじめな怪物の断末魔のさけびに、耳をすます。