ナンバーガールと今岡信治 性的/聖的衝動に囚われた男子の愚かさ
えーっと、臨時収入が入ったのでCD買ったろうと思い、ミケランジェリのライヴ音源のボックスセットを買った。10枚組2千円とか安過ぎ。ショパン、ベートーベン、バッハ、ブラームスを網羅的である意味無難な選曲だけれど、ドビュッシーの前奏曲が揃っているのはやっぱり嬉しいなぁ。
おーい!!
あの娘の本当 俺は知らない
あの娘のうそを 俺は知らない
―NUMBERGIRL「I don't know」
ゼミもサークルも同じで、素敵にヴィヴィットな服装と奇抜な感性を持つH君という仲の良い青年がいるんだが、彼が最近ネットラジオにはまっていて、同ゼミ生のid:nEgi嬢も交えてメッセンジャーしつつ、彼がトークするという形式なのだが。いいね、ネトラジ面白い。曲もiTuneでかけたりできるし、こちら側がメッセンジャーでファイルを送ると直接リクエストも出来る。若干のタイムラグはあるものの、ほぼリアルタイムでメッセンジャーをやっているからレスポンスもスムーズだし。
で、今日は彼が成人式前日にアダルトビデオコーナーに足を踏み入れ、商品化される量産型エロスに全く魅力を感じなかったというエピソードに始まって、結局「セックス」ってなんなのよという話題にまで発展していて大いに議論が白熱した。エロスとタナトスは、人間の根源的欲求であり、その解釈を巡る哲学はいわば僕ら全員のライフワークのようなものなのだが、エロスに関して言えば非常に抽象的で哲学的なアジェンダにもなれば、逆にどうしようもなく下世話な猥談にもなりうるわけで、その全てを含めて僕らを惹きつけてやまない概念であると思う。
彼の高校の頃の同級生(女性)がDMMでグラビアアイドルみたいな仕事をしているらしく、DMM自体はアダルトビデオの専門メーカーだし、最近は雑誌やテレビなどでグラビアを通してある程度キャンペーンしたあとで、アダルトビデオへ転身する所例が戦略として通常化していることもあり、その女の子もAV出ちゃうかもなと勝手に予想していて、そしたら泣いちゃうなぁという話になって結構盛り上がった。
そのとき彼とも話したことなのだが、知り合いの女の子*1のAV出演なり売春なり、自分の女性としての身体性を商品化する行為に出会ったときの感情って絶対物凄く複雑な要素を孕んでいるし、この事実に対する反応は同性と異性では全く違ったものだろう。「泣いちゃうかもしれないな」という言葉が端的に言い表している気がするが、ショックとか哀しいとか軽蔑とかではなく、ただただ虚しいという感覚。感情と言うよりは虚無と言った方が適切かもしれない。その後で、怒りとか哀しみといった強い感情も勿論生まれては来るのだが、その感情的矛先は往々にして自分自身や世間と言ったものに向いていて、女性そのものに何かしらの強いマイナスの感情を抱くと言うことは殆どない。彼女と言うより、彼女が自らの「性」を売るという行為そのものへの、またはそれがまかり通る社会への嫌悪感と言った方がいい。そして、彼女の行為を正当化する男性の「リビドー」という際限ない市場が、他ならぬ自分自身の中にも存在しているということが言い知れぬ不快感とやりきれなさを喚起する。そこに生まれるのはやはり深くどす黒い虚無だ。
男子*2というものは惨めなもので、女子という存在を性的対象としての眼差しをとめることが出来ない一方で、彼女達を神格化し崇めずにはいられない。そこには、純粋な憧憬の念や隷属の意志とは別に、彼女達のセックスアピールにいちいち反応してしまう自分への罪悪感というか負い目みたいなものが含まれている。その複雑な感情が言ってみれば童貞コンプレックスとも呼ぶべきメンタリティーで、ときとして僕らの創作意欲やイマジネーションの刺激的な原動力となりうるものだ。
アークティック・モンキーズの「When The Sun Goes Down」などは、そのような少年のリアリティーを描ききった楽曲ひとつだが、日本だとH君と僕の共通のフェイバリットバンドでもあるナンバーガールなんかはそういった中学生的な心性を表現する代表的アーティストだろう。
「蘇る性的衝動」とはバンドのフロントマン向井秀徳が、自らの歌詞の中で酔っ払いのうわ言のように繰り返すクリシェみたいなものだが、彼の詩世界の多くは13歳前後の中学生のリアリティーに根ざしている。そして、歌詞の随所に登場する「彼女」「あの娘」といった三人称で語られる女性達は処女と娼婦の両義性を持った絶対的存在として神格化されている。多くの女性が「君」ではなく「彼女」や「あの娘」と表現されるように向井にとって「女性」は、常に手の届かない邪悪で魅力的な存在であり、その苛立ちは「女性」そのものよりも、彼女達への性的/聖的衝動を抑えることの出来ない男子の愚かさへと向いている。ここで、「性」と「聖」の二種類を表記したのは、中学男子が女性に対して抱く感情と言うものは必ずしも、リビドーすなわち性的衝動だけではなく、女性の処女性を崇拝する「聖」的な性格も含んでいるからだ。むしろ、中学男子にとって感情としては「聖」の比重の方が大きいかもしれない。そこに「性」が混じっていて、それが実を言えば本質なんだということを知るからこそ虚しい。
冒頭にも挙げた「I don't know」も、そういった中学生的虚無感と苛立ちそしてピュアネスが爆発する名曲だが、この楽曲は塩田明彦監督作品「害虫」の主題歌にもなっている。劇中の宮崎あおい演じるサチ子は、ナンバガの詩に登場する三人称の女性のイメージそのものと言っていい。
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男子は自らが女性に対する性的/聖的衝動に囚われ続けてるとわかっていながらも、やはり高校の頃の同級生がAVに出たりすると言い知れぬ虚無感に襲われたりするわけで、その時点で完全にリビドーの奴隷なのだ。AV出演に対する女の子の抵抗意識は下がりつつあるし、性を商品化することに対する認識も男子よりずっと開き直っていたりする。男子は、商品として「性」の流通の市場原理が自らのリビドーに関わっていることがわかっているので、その分だけ屈折した思いを抱かざるを得ない。そして「あの娘」がどんな気持ちなのか、どんな恋をするのか、何も知らない自分の愚かさを思い知らされ、自己嫌悪に陥る。そんな中、当の「あの子」はあっけらかんと「かえるのうた」を踊っていたりするのだ。13歳男子のリアリティーなんて滑稽なものじゃないか。