Devil's Own

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『トウキョウソナタ』、ニヒリズムの向こう側


 『トウキョウソナタ』を見た。涙が溢れた。胸が高鳴った。言葉を失った。抑えようもない感情の波がぐるぐると心を渦巻いてぐしゃぐしゃになった。本当は以上で言い切ってしまった感があるが、自分なりに、少しずつ、言葉にしたい。少しずつだ。死ぬまで大事にしたい映画だからだ。
 家の中へと侵入してきた風が新聞紙を舞い上がらせる。異様に不吉な、だけれどまさしく黒沢清的なファーストカットで既視感に襲われた。前作『叫』のラスト、人々が死に絶えた(ようにしかみえない)街の中を役所広司が足早に歩いていく場面でも、同じように不吉な風が吹いていた。世界の終わりに吹く、誰も感じることの出来ない風だ。『トウキョウソナタ』は、『叫』ラストの終末観をそのまま受け継ぎ、そこを出発点にしているように思う。そしてこの終末観は多くの黒沢映画で通底音のように共有されている。
 ほとんどの登場人物が最初から終わってしまっている。不吉な風を一度は締め出しながらも、再び窓を開けて空を仰ぎ見る恵(小泉今日子)は「家」の中に閉じ込められ、ゆっくり腐敗していくようだ。その夫であり、一家の長である佐々木(香川照之)もまたリストラという「終わり」を唐突に言い渡される。真っ直ぐ家にも帰れず、足を運んだ公園には同じような失業者の群れ。もう、これ以上は進めそうにもない閉塞感と奇妙なユーモアを引き摺って『トウキョウソナタ』はじりじりと、行き止まりを押し広げるように進んでいく。家族にリストラを黙っている佐々木、「誰かわたしを引っ張って」と呟く恵の姿は、そうした絶望の中でなおも出口を探す必死さと往生際の悪さを見る者に突きつける。アメリカ軍兵士を志願する長男・貴(小柳友)、こっそりとピアノを習い始める次男・健二(井之脇海)もまた、同じような虚無感に押しつぶされそうなりながら、出口を探している。
 それでも、この4人家族に関してはまだ脈を打っており、呼吸をしているといえるだろう。劇中たった一度だけ描かれる四人揃っての食事のシーンには、優しくて懐かしい家庭の暖かみがある。父親がいただきますと言うまで箸をつけずにビールを注ぐ手をじっと見つめる母と息子達の中には、リストラされた事実を隠してまで父親が必死に守ろうとする「権威」が辛うじて保たれているように見える。しかし、佐々木の友人であり、同じように失業中の黒須(津田寛治)は、もはや完全に虚無の虜として描かれており恐ろしい。自分達のことを「ゆっくりと沈んでいく船のようだ」と自嘲する一方、定時的に鳴るように自分でセットした携帯電話に応答し「ビジネスマン」を演じ続ける黒須。家族、世間、そして何よりも自分に対する欺瞞によって辛うじて精神安定を保っているのだ。黒須に頼まれて「部下として」佐々木が黒須一家と食事する場面の空虚さは壮絶だ。先述した佐々木家の食卓とは対照的である。「佐々木さんも大変ですね」とすべてを見透かしたように呟く黒須の一人娘にも笑いながら戦慄する。そうして黒須は、「救命艇は行ってしまった」と呟きながら、没個性の行列へと飲み込まれていく。ノアの箱舟の終末観を纏ったこの行列は、ニヒリズムという甘美な魔物である。
 体裁や世間の目にとらわれもがき苦しむ大人たちの醜態を克明に容赦なく映し出す一方で、子どもたちに対しては優しくおおらかな眼差しが向けられているところも見逃せない。バイトで配りきれずに有り余ったポケットティッシュを川の中に投げ込み、空になったダンボール箱で貴と友人がサッカーに興じる場面では、並走するカメラがウキウキするような高揚感を呼び覚ます。大地震という終末思想に思いを馳せ、アメリカに旅立つ別れ際母親に敬礼する貴の純粋さはやはり子どもならではのものだ。家出した友だちと束の間の逃避行を演じ、友だちが大人たちに捕らえられ一人ぼっちになってもなお走り出す健二の姿、『大人は判ってくれない』のジャン=ピエール・レオを幻視したのは僕だけじゃないはずだ。
 アメリカ兵志願とピアノ、閉鎖された日常から逸脱するためにそれぞれの足がかりを探し当てた二人の息子達は、当然親達を混乱させる。自分のやりたいことに対して理不尽な禁止を強いる父親に、息子達は子どもならでは純粋さを以って反駁する。体裁や権威という空虚な概念に囚われた父親には当然何も言い返すことが出来ず、執拗に二度も繰り返される父親の「敗北」は、見る者の心も切実に締め付けてくる。*1
 行き詰った父親と母親にも、それぞれ映画的で唐突な逸脱へのチャンスが与えられる。男はトイレ清掃の仕事中に分厚い札束の入った封筒を拾い、女は家に押しかけた強盗(役所広司)によって誘拐される。この映画が感動的なのは、登場人物がそうしたチャンスを最終的に捨て去り、日常に帰ってくるという点だ。ショッピングモールで、出会いがしらに逃げだしてしまった夫の後姿を見つめる小泉今日子の美しい諦念。夫を捨てて強盗の元に戻り、髪をほどき、車の屋根を開いて加速させるまでを長回しでとらえる場面でのスリルと官能には驚嘆する。トイレで拾った札束を懐に隠したまま、ごみまみれになって這いずり回る香川照之の絶望。その絶望に引き寄せられるように香川照之の傍を掠めて行く死(自動車)。そうした非日常を乗り越えてもなお、朝日を受け止めながら、父として、母として、日常=家庭へと戻っていく二人の勇壮な姿が実に素晴らしい。「お腹空いたね、ご飯作るね」だけですべてが赦される、ということ。「お父さん変な格好」だけですべてが救われる、ということ。黙々と朝食をとる家族三人の姿だけですべてが語り尽くせる、ということ。
 ラストシークエンス、息子が奏でるドビュッシー『月の光』の音色に、父親の瞳から不意に零れてくる涙のたった一粒。演奏を終えた息子の肩をたたき、誇らしげに会場を後にする家族の強さと脆さ。演奏後、会場の喧騒をそのまま映画の終わりとして受け止めることの出来る幸福。この映画がまやかしのファンタジーであることを意識させてもなお、この映画が語りえた希望は力強く確かなものだ。

*1:その後、妻の口から放たれる「そんな権威潰れてしまえ」という一言によって、彼の権威は完全に失墜する。