Devil's Own

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『ヤッターマン』−終わらない夏休み


 数年前に『ヤッターマン*1が実写映画化すると聞いたときは、正直「なぜ、いまさら」と思った。だからといって、「じゃ、どのタイミングなら適当だったのだ」と問われると返答に窮する。よくよく考えてみれば、ヤッターマンドロンボー一味の戦いは、僕らの知らないところでずっとずっと続いていたように思える。変わったのはむしろ僕のほうだった。サトシが未だポケモンマスターになれていないと聞けば、さすがにそれはまずいだろうという気がするが、ヤッターマンドロンボー一味がまだドクロストーンを奪い合っていると聞かされれば、納得もするし嬉しいとすらおもう。
 オリジナルのアニメ『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』(1977〜79)を見ると、その世界が、同時代から切り離されているような奇妙な印象をうける。原因は、言うまでもなく手を替え品を替えながらも繰り返される物語の反復性だろう。随所に散りばめられたナンセンス極まりないギャグもこうした反復を前提としている。僕は勿論『ヤッターマン』をリアルタイムで見たわけではないが、CSの再放送を見ながら「彼らは毎日毎日一体何をしているんだろう・・・」と思っていた。なるほどドロンボー一味にはドクロストーンを探すという一応の「目的」がある。ヤッターマンたちだって、ヤッターワンからヤッターキング、更にはヤッターゾウの登板など武装面における強化(つまりは変化)が見られる。しかし劇中で、彼らが戦う理由がシリアスに語られたためしはなく、結果としてドクロベエの誤情報にヤッターマンドロンボー一味が振り回されるだけの狂言が何度も繰り返して演じられているようにに見える。これは恐るべき無限回廊だ。『恋はデジャ・ブ』(1993)やカフカの『城』の恐ろしさをはるかに超越している。
 しかし、『ヤッターマン』の世界はどこか甘くてやさしい。それは終わることのない(ように思える)子供の頃の夏休みを思わせる。毎日毎日朝から晩まで、飽くことなく友達と遊ぶ(=戦う)。日が暮れると、友達と別れるが、また朝になれば同じ場所に集まり同じような遊びに興じる。そんな遊びに目的など必要ない。大人たちにとってみれば、彼らの毎日はたいそう無意味でくだらないが、もう戻ることもできないから、少しだけ切なくも映る。おそらく、ヤッターマンドロンボー一味も、自分たちがなぜ毎度毎度、満身創痍になりながら戦っているのか自覚していない。強いて言うなら、ドクロベエの「お仕置き」のためだろうか*2。『ヤッターマン』の世界は、夏休みのまま時が止まっている。
 ホモ・ルーデンスユートピアを体現した『ヤッターマン』を、一回限りの映画でやるとどうなるか。残念ながら映画は二時間そこらで終わってしまうので、無限に続くような「日常」帰納的に描くことはできない。三池は、繰り返される時間軸のある一部分をランダムに切り取ったかのように映画の時間を設定し、そこに小学生的な下ネタとちょっと幼いロマンスを加味することで、夏休みのあの「時間」を真空パックすることに成功した。要するに、多くのアニメ実写化が犯してきたような、ストーリーを第一話から語りなおすといった愚劣な過ちは一切踏まず、ヤッターマンドロンボー一味の戦いが、あたかも当たり前の「日常」であるかのように語り切る。「説明しよう!」などお馴染みのナレーションがこうした手法に一役買っていることは言うまでもない。ヤッターマンたちのことを知らない人が見ても、なるほどこの5人は「ドクロストーン」という何やらヤバそうなブツを巡って争っているのだな、とわかるだろう。そう、いくら何でもそのくらいはわかる、そういうことを、ここ最近の映画は愚直に語りすぎているのだ。エンドクレジットの後にご丁寧にもフェイク予告までつけた三池は、反復する『ヤッターマン』の世界観とそれを受け止める観客の感性をしっかり見抜いている。
 後半は、ややダレたものの妙に影の薄いヤッターマン二人の存在感も含めて、ほぼ完璧な実写化だといえるだろう。CGによるヤッターワンヤッターキングのバトルは20年後にはそうとうチープな代物になるだろうが、むしろそのとき初めてこの映画は真価を発揮するに違いない。子供たちの遊びは、もっとお粗末で無骨なものだからだ。ヤッターマンがいる限り、この世にオトナは栄えない!!!

余白

  • いろいろと魅力的な要素がてんこ盛りの本作だが、やはり賞賛されるべきはドロンジョ役の深田恭子だろう。わがままでグラマラスな悪女気質、だが一方で道化にもなりうるドロンジョ本来のキャラクターに、深キョンのコケティッシュな魅力が見事にマッチしている。子供たちの新しいセックスシンボルが誕生した。それだけでもこの映画は賞賛されるべきだ。深キョンって、背伸びした悪女が似合うよね。「は?深キョンドロンジョかよ。夏目ナナにやらせろよ」とはもう言わない。  
  • 三池崇史の作品ではたいてい可愛い女の子がひどい目にあうので楽しいのだけれど、福田沙紀に至ってはほとんど放置プレイというある意味もっともサディスティックな扱いを受けていたとおもうんだけどどうでしょう。鼻血フェチとしては岡本杏里も◎
  • 最初期の『クレヨンしんちゃん』を想起するお下劣ギャグに加えて、かなり露骨なセックスシーンまである。しっかりイッちゃっるし。「子供に見せたくない映画」の認定要素を満たしすぎ。これは三池崇史監督作全般にいえることだが、建前では見せたくないなと言いつつも、実はこっそり見てほしい映画だといっておこう。持論だが、お母さんが知らないところに本物のパンクは宿るとおもう。クドカンやあおいちゃんはお母さんでも知ってるでしょ?だからやっぱり・・・ああなるよね。僕も子供ができたら、三池の監督作も、必要以上に「絶対に見るなよ」と念を押しながら机の引き出しの一番目立つところに隠しておきたいと思う。
  • 立ち消えになったのか知らないが、『ガッチャマン』も、是非このくらいリラックスしたガキんちょ感覚で映像化してほしい!監督は・・・デル・トロで(笑)

*1:科学忍者隊ガッチャマン』も同時にアナウンスされていた気がするが、こっちの企画はオジャンになったのだろうか・・・。もういいじゃん『ジェットマン』でってこと?(笑)

*2:実際、当時はこの「お仕置きタイム」が人気を博していたのだそう。