Devil's Own

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『告白』


 中島哲也監督作品。騒然とした教室の中で、愛娘を殺された教師・森口悠子(松たか子)が、淡々と自らの復讐の意志を語り始める。タイトルからもわかるようにこの物語はとある事件をめぐる関係者の告白形式を主軸としており、そもそもが小説というフォーマットを前提としているのだった。そして映画も、その殆どが登場人物のモノローグによって進行していく。一般的には説明過多であるとして好まれないモノローグという表現形式ではあるが、計算されたトーンやリズム感を獲得することでどんな音楽よりも饒舌な劇伴となることが稀にある。どこまでも弱点と表裏一体ではあるが、この映画の最大の推進力となっているのが松たか子によるモノローグであることは間違いない。無表情で語り続ける松の異様な存在感は、ですます調の冷淡さも相まって、平凡な教室を緊迫した空間へと変質させていく。随分むかし松たか子のラジオ番組を聞いたことがあるが、声質や独特の語り口に子どもながら陶然としたことを覚えている。松のモノローグはこの映画最大の発見といえるかもしれない。
 膨大な情報量を蓄えたモノローグと並行して映し出されるのは、クラスの中学生たちの暗鬱とした社会である。厳格かつ冷酷な言葉たちとは裏腹の耽美主義的な映像世界が、教師と生徒の断絶を際立たせる。この風景はいったい誰を「主観」としたものなのか?中島哲也作品の特徴は、カラフルかつポップな色彩感覚というよりも、原作のあらすじを踏襲しつつ、「主観」を徹底的に固定することでまったく印象の異なる映像世界を再構築してみせるアプローチにあるとおもう。その手法がもっとも顕著にあらわれ、同時に最も成功した例が『嫌われ松子の一生』であり、あれはなかなか画期的な試みだったと感じた。彩度を落とし、冷たいトーンで貫かれた『告白』の映像世界は、一見するとこれまでの中島作品と異なってみえるが、劇中に登場する中学生たち(特に中心となる少年Aとクラス委員をつとめる女子生徒)の心象風景として見ることができ、その意味で従来の手法に準じた演出だといえる。ここでは、いかにも中学生らしく過剰で、憂鬱で、空虚で、退廃的な映像が連なっていくのだ。センスよくまとまれらたイメージ群はそれなりに心地がいいのだが、これが映画の面白さかといわれれば…。そこには、ショットとショットが有機的に繋がっていく快楽も登場人物のアクションが織り成す躍動感も見当たらない。クオリティの高いミュージッククリップかコマーシャルフィルムを延々と見ているかのような気分になるのだった。だが、まるでコマーシャルかなにかのように世界を見てしまう眼差しにこそ、はからずも現代人の暗黒面が表れてしまっているのも事実である。ハイスピード撮影を駆使したスローモーションと比例するように、暴力や罪悪もひたすら薄く薄く引き延ばされていく。命も愛も憎しみもすべての価値が暴落していく究極のデフレ世界。恐怖のあまり思考停止した少年少女が、「That's tha Way」に合わせて踊り狂う場面の薄ら寒さはどうだろうか。この場面に象徴されるように、主要な人物(つまりこの映画の主観となる人物)を除いたクラスメイトのほどんどが「衆愚」とよぶにふさわしい浅はかで愚鈍な集団として描かれている。実際にはこのクラスにも複雑な政治と衝突があるはずであり、その意味で、この映画は中学生の暗黒を描くことから完全に逃げてしまっているのだ。だが中学生は基本的に、自分自身の浅薄さは棚に上げて、なめきった眼差しを世界や人間に向けている。私もそうだった。そして、中学生を過ぎてもなおこのような感覚で世界に接している人がごまんといる。要するに、この映画を見て「独特の映像センスがよかったです」とか「とても考えさせられました」とか感動のバーゲンセールの如き感想言ってる人たちですよ。監督は、映画のラストに松たか子に「なーんてね」と言わせることで、この映画が根ざしているフィクション性そのものの危うさを問いかけてみせたが、私に言わせればこれはまだまだ甘くて、エンドクレジットが終わった後に「A〜C〜、公共広告機構です」という企業キャッチとかが出たら、ほんとに打ちひしがれたのにとおもう。