Devil's Own

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『ヒア アフター』(クリント・イーストウッド)

"Hereafter"2010/US

キャリア集大成ともいえる傑作『グラン・トリノ』で自らの肉体を葬り去ってから、『インビクタス』『ヒア アフター』ときてイーストウッドの新しい方向性がおぼろげに見えてきたようにおもう。というのも、ほとんど「透明」とすら言われた『インビクタス』に比べて今作ははっきり「イーストウッド主演作」といえるのではないか。寝言言ってんじゃないどこにもイーストウッドなんて出ていなかったではないか、と言う人。いやいや、ちゃんとクレジットされていましたよ、「Music:Clint Eastwood」とね。別に穿った見方をしようというのではない。ウォルト・コワルスキー(『グラン・トリノ』)の霊魂は、幽霊ガンマン(『ペイルライダー』)に輪廻転生よりも、音楽のように世界をただよい包み込んでいるほうが自然だとおもうのだ。『グラン・トリノ』の感動的なクロージングを思い出そう。グラン・トリノが走り去った後、コワルスキー(=イーストウッド)がしわがれた声でテーマソングを歌っている。ワンコーラス終わって、ヴォーカルがジェイミー・カラムに代わった瞬間、後続の自動車が次々と画面を横切り始め、止まっていた時が動き出す。あれはまさしく、コワルスキーの魂がひとつのスコアへと昇華した瞬間だったのではないか。私たちの誰もが、大切な人のいない世界を生き続けなくてはいけない。もちろん、遅かれ早かれイーストウッドのいない世界もやってくる。『ヒア アフター』はイーストウッドなき世界を生きるわれわれのための映画だといえば、いくらなんでも感傷的すぎるだろうか。ただ、この映画(及びスコア)がこちらの感傷を強烈に刺激してくることは確かだ。
 冒頭、セシル・ドゥ・フランス演じるフランス人ジャーナリストは東南アジアで大津波に遭遇する。臨死状態のさなかに目撃した光景を忘れることができない彼女は、執筆のテーマをミッテランからHereafter(来世)へと変更し、周囲を困惑させる。一方、マット・デイモン演じるアメリカ人の青年ジョージは、かつて卓越した才能を持つ霊能力者として活躍したが、死者との対話に疲弊し、いまはブルーカラーとして細々と生活している。「この世」での対話を求めるかのように、イタリア料理教室に足を運ぶ(エプロン姿のデイモンのちぐはぐさがおかしい)が、そこで知り合った女性(ブライス・ハワード)とのほのかなロマンスさえも、自身の霊能力のために立ち行かない。さらに、交通事故で双子の兄を亡くした少年は、喪失感を抱えたまま死者の面影を追い求めている。『ヒア アフター』は、三つの独立した物語を淡白とすらいえる手つきで収斂させていく。三者は期せずして「死後の世界(hereafter)」に近接し、そのオブセッションにからめとられる。「あの世」に近づきすぎた者たちが、「この世」へのリハビリテーションを模索する映画、と単純に要約してしまっていいものか。「何も始ってないじゃん」という批判は愚の骨頂もいいところだ。言ってしまえば、これは「始まり」についての物語であり、『ソーシャル・ネットワーク』とも強く共振しているようにもおもうのだがどうだろう。マット・デイモンが窓から「客」を見下ろすショットにはコミュニケーションへのかなしい諦念が伴う。しかし、終盤では、したたかな希望の光景として反復されているのだ。私はここで涙がとまらなくなってしまった。詳しくは書かないが、ラストにデイモンが幻視(フラッシュフォワード?)する光景にも驚く。観る人によっては呆れてしまうかもしれないが、コミュニケーションへの高鳴る希望と幸福が横溢しているようで私には感動的だった。どのシーンも余計なものは一切なく、ひたすら透明で匿名的な演出が施されている。にもかかわらず、ひとつひとつのショットの恐るべき強度はいったい何なのか。そして、料理教室での「ラヴシーン」も忘れるわけにはいかない。80歳の老人がこんな変態プレイを演出していること自体倒錯しているが、その瑞々しさと官能性はエリック・ロメールのようでもある。