Devil's Own

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『イントゥ・ザ・ワイルド』−理想でメシは食えぬ


イントゥ・ザ・ワイルド』はすごい映画だと思うのだが、これも短いイメージショットを組み合わせたミュージッククリップ的な編集が15分に一回くらいあって、それだけがどうしてもノレなかった。時間と行動の流れテンポよく語るためだとはいえ、ああいう編集はエリック・ゴーチエによる圧巻のロングショットとは相容れないと思うのだが。
 とはいえ凡百の自分探し系ロードムービーを無化してしまうこの映画のストイックさにはとても惹かれる。多くの自分探しさんがどうしてあんなに寒いのかと言えば、その目的が「旅」そのものではなく日常からの逸脱にあって、それがそのまま薄っぺらな自己肯定や承認欲求と結びついているからだ。「まだ見ぬ自分と会うために」とかいかにも頭が悪いキャッチコピーが冠せられているが、『イントゥ・ザ・ワイルド』の主人公クリスが向かう場所は別次元の高みにある。自己肯定どころが、文明と物質社会の恩恵を蒙る自分への絶えざる自己否定だ。クリスの行動原理は常に厳しい否定に根ざしており、そこには強靭な意志と、肉体への信仰があるのみ。息を呑む迫力で捉えられたアラスカの大自然は、ちっぽけなのに傲慢なひとりの人間に対する大文字の否定である。冷酷な否定の中へクリスは本気で身を投じていき、そして敗北する。そこにはひとかけらの感傷も入り込むことはできない。ロードムービーの多くでは道中で出会い別れる人々の関係や機微に重点が置かれているが、本作では自然と人間の殆ど対立構図に見えるかかわりを描く姿勢が貫かれている。旅の道中でクリスが出会う人々はみな親切で暖かいが、クリスが彼らに積極的に干渉することは少ない。クリスの強靭な視線は最初からアラスカの大地と空に向けられている。そうした人間関係を安易なセンチメンタリズムとして描かない結果、最後に出会う老人(ハル・ホルブルック)との関係はとても誠実で感動的なものと映る。「何から逃げている」という老人の問いに対して、クリスが「同じ問いをあなたに返すよ」と返す場面はともすれば凄く寒いものになりかねないが、それまでのクリスの性格や生き様の描写が功を奏して強い説得力を持つ。クリスは死の直前に、「幸せはそれを分かち合う人々の中に宿る」という感傷に絡めとられ絶命する。死の直前になってしか自身を名前を取り戻すことができなかったクリスの宿命に慄然とする。自己は死=喪失に裏打ちされて初めて認識しうるのかもしれない。クリスのデスマスクからカメラはゆっくりと上昇し、やがて点となり消えていく。高潔な理念のために家庭を捨てどこかの駅で野垂れ死んだトルストイの姿がゆるやかに立ち上がる。