Devil's Own

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「綺麗事」を引き受けるということ―「魔法にかけられて」


「アメリカ的なもの」を批判するに際して、民間企業をその象徴として捉えることもはや珍しいことではなくなった。マクドナルドとディズニーは、まさしくその筆頭ともいうべき企業であり、悪名高き近代資本主義のアイコンでもある。
 ディズニーのファンタジーは、「死」や「殺戮」の概念を隠蔽する。正しいものは必ず勝ち悪しきものは必ず滅びるという善悪二元論が物語の中枢に鎮座している。それをそのまま「世界警察アメリカ」の権威と置き換えることは容易い。ドリームワークスが「シュレック」などのアニメでディズニーの偽善と欺瞞を糾弾することで、アンチディズニーという価値観はますます大衆に浸透した。そんなことはもはや誰でも知っている。僕がこんなところで大真面目に書いても、うざがられるのがオチだ。僕自身、ディズニー映画をダシにしたアメリカ批判という安易な言説には辟易している。ディズニーが提供する「お金持ち」のためのファンタジーを無条件に甘受するのも気が進まないが、暖かい部屋で暮らし美味しいものをたらふく食べている人間がディズニーの偽善について批判するのはもっと気持ちが悪い。僕は幼少の頃からディズニーランドで遊ぶよりも奈良の寺院で仏像見ていたほうが数倍楽しいと本気で思っているつまらない人間なので何とも言えないが、ディズニーの築き上げた欺瞞はわれわれにとってあまりに魅力的なものであり、それを否定することは誰にも出来ない。言うまでもなくここで言うわれわれというのは「お金持ち」のことだ。消費されるファンタジー、生きるうえで全く必要のない「浪費」という愉しみ、それがディズニーが人々に提供してきた「商品」だ。だからそこには「死」や「殺戮」なんてあってはならない。そんなものは見たくないからだ。衣食住何不自由ない人間たちが必要とするもの。それが「浪費」だ。その愉しみは、エネルギーの有限性や人口急増などの現象を思えばパンドラの箱のようなものだ。今更誰も捨て去ることができない。
 先日、丸尾末広が漫画化した江戸川乱歩「パノラマ島奇談」についてのエントリを書いた*1。原作を読み返して思ったのは、パノラマ島とディズニーランドの類似性である。ユートピア思想にとらわれた主人公人見広介が莫大な資産を投じて作り上げた地上の楽園・パノラマ島。狭い家の中に広大な景色があるように錯覚させるパノラマ館の理論を応用し、木や石の位置、丘陵の微妙な曲線による遠近法を巧みに伸縮することで島全体にいくつもの風景を見せるのだ、とパノラマ島についての説明がある。そして人見はこう呟く「なんという恐ろしき欺瞞」と。同じような理論が、シンデレラ城の設計に用いられていることをご存知だろうか。その建物は頂上に近づくに連れてサイズが小さくなっており、下から見上げると実際よりも高くそびえているように錯覚させているのだ。だがそんなこと僕らは知りたくもない。夢の中でお金の心配を知るようなもので、損だ。浪費、という観点で言えば、パノラマ島に登場する「機会の王国」などはその典型である。そこにあるいくつもの鉄の歯車やシリンダーは絶えず動き続けているが、実際の所何も産み出さない。寺山修司はこの箇所を指摘して、パノラマ島全体が「生産活動」に関与しない無用の機械であると述べている。そして僕らの誰もが「有用性」や「生産性」から背を向けたがっていると。パノラマ島とディズニーランドは生きていくうえでは全く無用な「浪費」そのものを目的としているという点でも一致しているように思う。正確に言うとディズニーランドは大きな経済活動を孕んでいるので、完全なる無用だとは言えないが人々にとっての魅力の本質は限りなくパノラマ島に近い。
 僕たちはファンタジーという欺瞞をお金で買う。そのことに一体何の罪があるというのか?文化というのは結局お金持ちのものだった。「音楽がなくては生きていけない」とか「映画がなくては生きていけない」とか言っている人間は沢山いるが残念ながら彼らには嘘つきが多い。極限状態に置かれたときに同じことが言えるのか聞いてみたいものだ。
 前置きが長くなった。新しいディズニー映画「魔法にかけられて」は、ファンタジーを作ることそして愉しむことの罪深さを全て引き受けた上でなおも同じようなファンタジーを産み落とした決死の集大成だ。「ああ、ディズニーはもう全部わかっているんだな」この映画を見たとき僕はそう思った。相変わらずキラキラした笑顔と美しいメロディー、楽しいダンスとお決まりのハッピーエンドの中にあっても、僕にはどうしてもこの映画を作った人間の悲壮さと覚悟がずんずんと伝わってきて、心が震えるようだった。ディズニーはもう全部わかっている。この映画がお金持ちに消費されるための欺瞞であること、うたもダンスも世界を救うことはできないということ、だけれどファンタジーは確実に人々に必要とされているということ。クリストファー・ノーランの映画「プレステージ」を見たときに、手品の謎解きがいかに残酷なものかということを考えていた。*2誰もが嘘を期待している、自分だけが残酷な真実を引き受けて人々に幸福な嘘をつかなくてはならない。そんなこと、普通の人間に出来るだろうか。
 映画の随所に散りばめられたセルフパロディーが物語の前半部における「笑い」の中心となっている。これまでのディズニーアニメでは当然のように描かれてきた様々なことがら、「歌いだすキャラクター」「しゃべる動物たち」が現実においては如何に滑稽でグロテスクなものであるかを当のディズニーが大真面目にパロっているのだ。そこには北野武の近作のようなシニシズム微塵もない。やはりディズニーらしく陽気でひたすら可笑しい。これが凄い。おとぎの国のプリンセス・ジゼルがニューヨークの動物たち―ゴキブリ、ねずみ、ハエ、鳩たち―に掃除を手伝わせるシーンは特に印象的だ。日本人なら鳩は許せるかもしれない。しかし欧米においては鳩も害鳥であり、ゴキブリやネズミと並列の不潔な動物として認識されている。それでもジゼルはどの動物たちにも等しい優しさと深い慈愛を以って注いでいるのだ。凄い、凄すぎる。全国のシンデレラシンドローム女子よ、君たちにそれができるか?
 更に興味深いシーンがある。ジゼルが恩人である弁護士ロバートの娘モーガンに友達であるシマリス・ピップの武勇伝を聞かせる場面だ。ピップは、斧を持って襲ってくる赤ずきんから、か弱い狼を救ったのだ、という。「知っている話と違うわ」と不思議がるモーガンに、ジゼルはこういう。「赤ずきんが変えたのよ」。
 なんでもないシーンだが、ここにディズニー映画に対する幾多の批判へのアンサーがあったように思う。勧善懲悪の明快過ぎる構図を前面に押し出し、原作本来の残虐性や陰鬱さを隠蔽しようとする姿勢は、ディズニー映画のドラマツルギーを批判する場合よく指摘される点だ。「赤ずきん」の原作者、シャルル・ペローは「シンデレラ」の作者としても有名だ。「シンデレラ」もディズニー映画化に際して、多くのデフォルメが施され、もはやそちらがスタンダードとなっている。「シンデレラ」の原作が孕む陰惨さについて言及し、得意気に講釈をたれる人間もよく見る。ジゼルの台詞は、「本家はシャルル・ペローではない。ウチらだ」と宣言するかのようだ。
 こういった具合に全編で、ディズニーの悲壮な覚悟が垣間見える。極め付きが、ラストにおける力技のハッピーエンドだ。詳細に関してはネタバレになるので一応伏せることにするが、この無理矢理過ぎて違和感の大団円に僕は本物の闘志を感じた。世の中にはびこる、あらゆるニヒリズムや諦念に対する闘志だ。
 「魔法にかけられて」とは、絶望的なこの世界の中にあって大真面目に作られた綺麗事なのだ。ただ、僕自身は、綺麗事には「悪いもの」と「いいもの」があると思う。前者は大人になって生きていくうえで、自分を納得させるために身につけることを迫られる打算のようなものだ。前者は、僕らが小さい頃に教わったであろう優しさとか強さとか、言葉にするとちょっと恥ずかしいが誰もが人として当然持っているべき本質のものだ。この映画が見るものに訴えるものも同じように両義的なものだ。要するに残酷な現実も大いなる幻影も僕らには必要だということなんだろう。それは凄い贅沢なことなんだろう。きっとそういうことなんだろう。