Devil's Own

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『カールじいさんの空飛ぶ家』


 ピート・ドクターの監督第2作。78歳のカールじいさんは、死に別れた妻エリーとの思い出が詰まった小さな家にひとりで暮らしている。冒険家に憧れていた夫婦には子どもがなく、南アメリカにある「伝説の滝」で暮らすというささやかな夢のために貯金をしていたのだが、日常に忙殺され果たせないままであった。都市開発が進み、住み慣れた家を退去せざるをえなくなったカールじいさんは、大量の風船を使って家ごと南アメリカへ旅立つことを決意する。相変わらずコンセプトそのものが優れているとしかいいようがない。ただ、「予告編や序盤10分のトーンを期待していたので残念」という感想を見かけると、感動作であることを強調した宣伝がこの作品にとって不幸なことにおもえる。日本とアメリカではトレイラーのつくりがずいぶんと違っていて、スラップスティックな冒険活劇としての本質を理解していないと肩透かしを食ってしまうだろう。中盤以降はギャグとアクションがてんこ盛りで、ほとんど最初期のミッキーマウス主演映画の喜劇性に近い。とはいうものの、少年時代のカールがエリーと出会い、結婚し、互いに年をとり、死に別れるまでが描かれる冒頭部分はこの映画の白眉である。せりふを一切用いず紡がれる一連のシーケンスは掛け値なしにピクサースタジオの真骨頂といっていい。注目すべきは、このパーフェクトに美しい「思い出」が必ずしも肯定されていないという点だ。カールじいさんは、心地よい「思い出」と決別し、新しい生活へと踏み出していかなくてはならない。大事なものを捨て去ったとき、諦めたときに初めて人は、『Up』することができるのだ。それは決してドラマチックなことではないかもしれない。むしろささやかで地味なものだろう。だからこそ強かで美しい。カールじいさんとの地に足のついた生活こそが本当の冒険だったというエリーのアルバムにはそうした思いが詰まっている。「成長」(=grow up)は一連のピクサー作品の重要なタームだが、ここへきてその主人公に老人を据えたことに作り手側の気概を感じる。いやがおうにも『グラン・トリノ』を連想させるのだが、この作品はウォルト・コワルスキーの屍をなおも踏み越えていく。カールじいさんがエリーとの思い出の品々を次々と家から放り出す場面は、過去=モノとの決別というテーマを象徴すると同時に、劇中もっとも胸をかきむしられる秀逸な場面となっている。冒険を通して、カールじいさんは過去に関わるモノの殆どを捨て去ってしまうのだが、それは過去そのものを捨て去ったことにはならない。唯一残されたエリーのバッジが少年へと継承されているのにもぐっときてしまった。なるほど、詰将棋のように非の打ち所がなかった『ウォーリー』と比べれば『カールじいさん〜』のシナリオは整合性に欠けるし、粗さも目立つ。老夫婦にとって憧れの存在だった冒険家チャールズ・マンツが卑小な悪役として描かれすぎているという批判もあるだろう。しかし、彼もカールじいさんが執着する過去の具現化であり、分身と捉えるべきではないだろうか。マンツが飼いならしている犬たちの場合、落下する地点に川が流れていたり、パラシュートが開いたりと映画内の「お約束」に命が保証されているのだが、チャールズ・マンツにはそれがない。これは、過酷な「自分殺し」の物語でもあったのだ。傑作。

余白

それにしても、『トイ・ストーリー』に登場する犬のスカッドと本作に登場する犬のダグではもうまったくといっていいほど完成度が違う。犬造形のクオリティーは本作で頂点を極めたのではないか。毛並みや細かい動作のリアリティは一級品である。舌を出してハァハァハァハァしてたのに唐突に口を閉じて動かなくなるところ(「リスだ!」)とか、「あっち!」というときに微妙に前片足を上げているところとか、もう「うわー犬っぺー!!」とやけに感動してしまった。