Devil's Own

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『イップ・マン 序章』(ウィルソン・イップ)

"葉問(Ip Man)"2008/HK

 私は、香港映画にはあまり明るい方ではないが、『イップ・マン』がその歴史と蓄積を踏まえて作られた映画だということはよくわかる。キン・フーなどに代表される武侠映画のモンタージュ理論から、ブルース・リー以降肉体を時代を経て、そこにワイヤーやCGのテクノロジーも加わっていく。こうして見ていくと、カンフー映画の歴史は、重力などの自然原則からいかに肉体を解放していくかに腐心してきたかに見える。『イップ・マン』における格闘シーンにも、もちろん先に述べたようなノウハウが随所に生かされおり、俳優たちも華麗なアクションを見せてくれる。一方、ここでは極端に人間離れした表現はむしろ抑制されてもいる。超人的な運動表現がいくらでも可能になった現代において、あくまで「無力な人間」としての武術家を描いているのだった。『イップ・マン』のすばらしさはこの原点回帰ともいえるアプローチにあるのではないか。ブルース・リーの師としても知られる武術家イップ・マンの半生を、リー以降の文脈にあるドニー・イェンが演じるという歴史性にも高揚する。いかに技を極めてもなお強調されるのは、イップ・マンの「弱さ」(=謙虚さ)である。こうした「弱さ」は、うつくしく勝ち気な妻とのやりとりにおいてはコミカルに、理不尽な暴力を前にした無力感を描く際には重苦しくトーンを変え、作品全体のテーマとして貫かれている。精緻に再現された30年代佛山の街並みをやや俯瞰気味にとらえながら、カメラが滑らかに移動していく。一枚の凧が頼りなげに飛行していく一方で、物静かに食事をとるイップ・マン一家の面々。詩情溢れるセピア調の画面を見ていると、これから現実離れしたカンフーアクションが始まるとはにわかに信じがたいが、史劇/半生記としての重厚なルックと、血沸き肉踊るジャンル映画の快楽は無理なく共存している。朗らかな下町コメディの趣がある前半部と戦争を背景としたシリアスかつ過酷なドラマが展開する後半部のトーンの切り替えも見事で、ウィルソン・イップの力量は疑いようがない。そこには、かつてアメリカ映画の模倣から出発したレオーネが独自の様式美へと到達したような洗練を感じてしまうのだが…。私が特に感銘を受けたのは、偉大な武術家の生き様を丹念に描いていくことで、武術やそれを扱った物語に私たちがどうしようもなく惹かれてしまうのはなぜなのか、という問いに対してひとつの回答を提示した点である。労働者たちが、イップ・マンに詠春拳を学び暴力に立ち向かおうとする場面などは、ドニ―・イェンの卓越したアクションワーク以上に胸高鳴る躍動があるし、柄にもなく「ああカンフーってやっぱり最高なんだ」とかおもってしまった。イップ・マンが10人の日本人軍団を次々とぶちのめす場面は凄絶で、強さそれ自体の恐ろしさをさらりと描いてもいる。ゆえに、終盤の三浦(池内博之)との決戦は、映画としてのクライマックス以上に、武術の精神性を賭けた戦いという緊迫したドラマをもたらしてくれる。悪役の日本人を演じた池内博之もすばらしかった。武術と映画の息の長い蜜月をとことん突き詰め、その洗練された形態として今後も語り継がれるであろう掛け値なしの傑作だとおもった。
 ちなみに本作には、続編『イップ・マン 葉問』(原題『葉問2』。以下『2』)もあって、日本ではこちらのほうが早く公開されていた。『2』も見ごたえのある作品だとはおもったが、プロットしては『ロッキー4』だなとおもってしまった。武術家としての強さとは裏腹のイップ・マンの恐妻家ぶりがこの映画にユーモアを添えていたのだが、『2』ではその奥さんがすごく記号的な良妻賢母になってしまっていたりして。悪役のイギリス人ボクサーも単に無礼な奴という印象。続編映画としてよくも悪くもジャンルに忠実に作られているというべきだろうか。さすがに1作目には見劣りするものの、サモ・ハンとドニ―の決戦など見ごたえもあるのでいずれにせよ必見。ロリポップを持ったサモ・ハンの息子がぶさいくすぎて笑える。