Devil's Own

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覚書(『ウルトラマンサーガ』、『ドライヴ』、『まどか☆マギカ』など)

 今年度に入ってから異様に忙しく長らくブログを放置してしまった。忙しいなりに映画は仕事帰りなどに見ているのだが…。1ヶ月以上も最新記事が『プリキュアオールスターズ』のままストップしてしまっているのでいくつか覚書を書いておきます。

ウルトラマンサーガ』(おかひでき)

"Ultraman Saga"2012/JP

まずこの作品は特撮史に残る、さらに言うと「ポスト311」という文脈でのジュヴナイル映画史に残る大傑作として押さえておくべきだろう。あなたがDAIGOやAKB48のキャスティングを理由にこの映画を見くびっているとすればその予測はほぼ100パーセント覆されると言っていい。この映画では一般的には悪いとされる「タレント起用」を完全に逆手に取った作劇が施されているからだ。これに私は膝を打ちました。さらに本作はテレビシリーズ「ウルトラマンダイナ」を見ていた世代にとって最高の贈り物でもある。「ウルトラマンダイナ」の最終章、明朗な世界観から一転したハードすぎる展開に衝撃を受けたちびっこは多いのではないか。私もそんなちびっこ(中1)の一人だったが、『ウルトラマンサーガ』ではずっと心の中でわだかまっていた「ダイナ」のその後が初めて明かされている。「ダイナ」は昭和でいう「タロウ」のような作品でどこか過小評価されているところもあったので本当に感激しましたね。特撮シーンも精巧なミニチュアセットと仰角ショットの合わせ技でウルトラマンならではのスケール感が久々に味わえた。『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン』といい『プリキュアオールスターズ NewStage』といい、今年公開されたヒーロー映画における傾向についてもいずれ論じてみたい気もする。そこには「311」の刻印があることは明らかだ。ヒーローなき時代、大人たちが子どものために作れるヒーロー映画のあり方とはなんなのか。『ウルトラマンサーガ』はその集大成といえる映画だ。

『ドライヴ』(ニコラス・ウィンディング・レフン

"Drive"2011/US

 話題の出演作が続くライアン・ゴズリング主演の『ドライヴ』と『スーパー・チューズデー〜正義を売った日〜』(ジョージ・クルーニー)はいずれも初日に見た。2作とも違った意味で70年代の芳香を感じずにはいられない作品だが、傑作といっていい出来だとおもいました。『ドライヴ』は血沸き肉踊るカーアクションかと思いきや、出自のはっきりしない匿名的な男が隣人の女のために身を滅ぼすメロドラマであった。スローモーションでとらえたエレベーターでのキスシーンから惨劇へとなだれこむ豹変ぶりがこの作品のいびつな魅力を表している。話題のゴア描写もこの手の映画を見慣れているものにとっては真新しいものではないだろう。実際、この映画には新しいものは何もない。何もないのだが見るものの心を揺さぶる何かがある。『スーパー・チューズデー』はクルーニーらしい生真面目さで手堅くまとめられた印象もあるが、ゴズリングの魅力に引っ張られる形でポテンシャル以上の作品になったとおもう。いずれにしてもこの2作を見てライアン・ゴズリング特有の匿名性と二重人格性がはっきりと示されたように感じました。

タイタニック3D』(ジェームズ・キャメロン

"Titanic(3D)"2012/US

3D版を見るにあたってジェームズ・キャメロンの作品群を集中的に見返していたのだが、私はこの怪物的なヒットメイカーの本質をかなりの部分見落としていたことに気がつきましたね。『フライング・キラー』は差し置くにしても『ターミネーター』から『アバター』に至るまでジェームズ・キャメロンの作品には一貫した強度がある。「キャメロンらしさ」の本質がどこにあるのか。私には実はよくわかっていないように思います。これは「アメリカ映画らしさ」と言い換えていいものかどうか。というのもキャメロンの作る映画は現代のアメリカ映画においてはある意味で異端でもあるとおもうんですね。あんな王道の映画をあんなに堂々と作っている作家はキャメロンしかいない。にもかかわらずキャメロンの映画全体に「これがアメリカ映画だ」としか言いようのない空気がみなぎっているのはなぜだろうか。そんなことを考えつつ見た『タイタニック3D』である。正直3Dにする意味があったのかどうかは疑問だったが、やはり劇場で『タイタニック』を見ることには格別の喜びがある。すでにいろいろな人が指摘していましたが、退屈するかに思われた前半部でもキャメロンの運動神経がいかんなく発揮されていて、あらためて驚嘆した。後半の阿鼻叫喚に負けず劣らず前半のラヴロマンスでもちゃんと「アクション」してるんですよね。ローズたち上流階級の食事に誘われたジャックが、パンをほおばりながら自分なりの人生哲学について演説をぶつ場面。食卓を囲む人々の表情やしぐさを経済的とすらいえる手際のよさで次々と切り替えしていき、マッチを投げる身振りがアクセントを添える。見事。ジャックら三等乗客のたまり場に飛び込んだローズが息を弾ませてダンスする場面の高揚も忘れがたい。そしてこのふたつのシーケンスはいずれもジャックとローズが階段での待ち合わせるところで始まっているが、階段におけるふたりの位置関係は逆転している…。これは比較的わかりやすい一例で、計算しつくされたアクション処理は映画の随所に行き届いているのだ。後半のスペクタクルはいわずもがな。なるほど、やはり偉大な映画だと感心しました。

魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之

"Puella Magi Madoka Magica"2011/JP

 放映時は途中でやめてしまったのだが評判も聞いていたし、やはり押さえておくべきだろうと思っていたところ、先日CSで一挙放送していたのでまとめて見ました。放映時はとにかく1、2話がかったるくてですね…。しかし最後まで通して見てみると冒頭2話は実に用意周到で底意地の悪いミスリードだったことがわかる。『新世紀エヴァンゲリオン』がロボットアニメの脱構築であったように『まどか☆マギカ』は戦闘美少女アニメ脱構築であるわけだが、そんなことは既にどこかの識者が指摘しているだろう。確かなのは『まどか☆マギカ』を見た後で『プリキュア』シリーズをこれまで通りの平常心で見ることは至難の技だということだ。そのくらい「魔法少女」というジャンルへの解体ぶりは酷薄なものがある。3話後半以降は、美少女たちを肉体的にも精神的にも追い詰めていく過酷な鬱展開。彼女たちが戦う「魔女」もチャイルディッシュなデザインだけに恐怖感をあおる。ダークかつサディスティックな世界観は脚本を手がけた虚淵玄の作家性に拠るところも大きいようだ。この人のことは初めて知りましたがかなりのサディストだとおもう。「少女の受難と自己実現」の物語は私の大好物なので3〜11話までは「もうやめてー」とかいいながらも楽しく見た。最終話はなぜか『2001年宇宙の旅』になるのだが、壮大すぎてよくわかんなかったです。いきなり卑弥呼とかジャンヌ・ダルクの魂とか救われてもなあ…。さまざまな評論も読みあさったのだが私は宮部みゆき氏の「この作品はよき企みがあるミステリーとして幕を開け、それぞれに自己実現を希う少女たちの友情物語として進行し、終盤でミステリーの謎解きのために用意されていたSF的思考が披露されるという、実に贅沢な造りになっています」という感想がいちばんしっくりきた。私はこの物語の真骨頂は思春期の少女特有の精神性を描く手つきにあったとおもう。期待、不安、焦燥、嫉妬、劣等感などの感情のひとつひとつが魔法少女ものという枠組みの中で丁寧に表現されているのだ。親友が自分よりも先に知らない世界に飛び込んでしまう。焦りも感じるが、何かを失ってしまうことが怖くて踏み出せない。こうした思春期特有の感情の揺らぎは魔法少女の運命に関係なく感情移入できる。その意味で『まどか☆マギカ』は普遍的なイニシエーションの物語といえるだろう。それだけにあの最終話はややスケールが大きすぎる気がしました…まどかのようなふつうの女の子があんな悟りの境地に唐突に達せるものなのだろうか。作り手側の妙な母性信仰が出てきてしまったような気もした。キャラクターの中では中盤に登場した杏子がダントツで好きした。