Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

『華麗なるギャツビー』(バズ・ラーマン)

"The Great Gatsby"2013/US

 『グレート・ギャツビー』(読んだときは『華麗なるギャツビー』という邦題だったとおもう)を初めて読んだのは中学生のころだったか、私はしばらくこのおろかで、みじめで、誇り高い男の人生についてかなりの時間思いをめぐらせた。そのうち当時のアメリカの状況やフィッツジェラルドの人生についても知り、どうして『グレート・ギャツビー』がアメリカ人にとって特別な作品になったのかも理解できるようになった。ただ、輝かしい20年代のアメリカからはおよそ懸け離れた時代と場所に住む鬱屈した中学生の心にまでなぜ響いたのかはよくわからなかった。実は今もよく分かりません。
そんな名作をバズ・ラーマンが監督するという。豪華絢爛なパーティーシーンを映した予告編を初めて見たときは不安を覚えましたが、ラーマンは意外にも『グレート・ギャツビー』の物語や自身の資質に耽溺することなく冷静かつ効果的にストーリーを映像化していたとおもう。おそらくバジェットの多くが割かれたであろうゴージャスで享楽的なパーティーがギャツビーの、さらにいえば20年代アメリカ人の批評にもなっています。
 ディカプリオのちょっと過剰すぎるくらいに劇画化されたギャツビーの造形が圧倒的に正しい。ギャツビーとはいったいどんな人物なのか。さんざん引っ張った挙句ついに画面に登場するとき、パーティーの狂騒もピークを迎える。勇壮に響く「ラプソディ・イン・ブルー」と花火をバックに満面の笑みを浮かべるディカプリオに大爆笑。ラーマンのトゥーマッチな演出とギャツビーの虚飾性が絶妙に合致した名場面といえる。デイジーとの初めてのお茶会で挙動不審になってしまう場面のおかしさはどうだろう。これまで映画化された『グレート・ギャツビー』のすべてを見たわけではないが、彼の愛すべき滑稽さをここまで効果的に描いたのはおそらく初めてだろう。あのシーンで観客は一気にギャツビーを好きになれますよね。
 キャリー・マリガン演じるデイジーが原作ほど軽薄には描かれていないのもよかった。原作ではとんでもないクズ女ですからね。今回の映画版は「悪意はないけどなんとなく主体性のない女」として描くことでリアリティを獲得できたとおもうし、セレブリティ=悪という単純化をうまく回避したのではないか。ああいう女性はいるし、一方的に責めるわけにもいかないですよね。そのぶんセレブリティの悪い面を一人で引き受けたトム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)もよかった。
 さて小説『グレート・ギャツビー』の終章は、世界でもっとも美しい英文のひとつといわれる。確かにそんなに英語ができるわけでもない私でも、『ギャツビー』の終章とポーの詩くらいは美しいとわかります。現在比較的入手しやすい『ギャツビー』の翻訳は4種類あるが、結局どれも原文の美しさに届かないとおもっている。ラーマンは有名な終章をほぼそのままニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)に朗読させ、画面に文字すら登場させる。これには驚きました。名文に対する潔い敗北宣言。これでいいのか、ともおもう。しかしラーマンはラストで映画ならではの見せ場を用意してもいる。私たちはあの場面でギャツビーが孤独ではなかったと知ることができるのだ。

『リアル〜完全なる首長竜の日〜』(黒沢清)

"Real"2013/JP

 ミスチルの主題歌が流れる予告編を見るたびに「本当に黒沢清の新作なのか」と半信半疑だった。しかも予告編を見る限りすごいつまんなそうだったし「綾瀬はるかさんの壊滅的なフィルモグラフィーを前に黒沢清も敗北してしまうのか」なんてなめたツイートまでして…お恥ずかしい。予告編に踊らされていたのは私なのだった。ふたを開けて見れば、どこを切ってもまぎれもなく黒沢清の映画だったのに。間に『贖罪』という驚異のテレビシリーズを挟んだとはいえ、劇場公開新作としては『トウキョウソナタ』以来5年ぶりである。5年の間、私は社会人になり転職し、恋人まで変わった。いったい日本の映画界は何をしていたのか。
 自殺をはかり昏睡状態に陥った恋人を救うため、主人公の青年は最新医療で彼女の意識に入り込む。一見ロマンチックな行為のようだが、そもそも恋人の頭の中に入り込むというのがどうかしている。原作では姉弟らしいのだが恋人どうしへの改変により、黒沢清の資質と親和性を増したのではないか。ものすごく親密な他人と意識を混ぜ合わせるなんて考えるとぞっとする。どこまでが現実でどこからが意識なのか。どこまでが自分でどこからが他人の意識なのか。前半部は「胡蝶の夢」のごとく不安定な世界が展開し、怪奇映画の魅惑に満ちている。黒いごみ袋、ひとりでに開くロッカー、スクリーンプロセス、銃殺、朽ち果てた自動車、どこからか吹いてくる風、落下する綾瀬はるかなど、娯楽映画の中にふんだんに詰め込まれた作家の意匠にうれしくなる。悪夢的なビジョンは主人公たちのあるトラウマに根差していて、その発動装置ともなる「水」の描写は相変わらず冴えている。その一方で新しい恐怖表現にもしっかり挑戦してもいる。前に「呪いのビデオはこわいけど、呪いのDVDはあまり怖くない。幽霊はアナログと親和性がある」というようなツイートを見かけて、妙に納得した覚えがあるけど、『リアル』はデジタル幽霊(といっていいのかわからないが)の嚆矢となるかもしれない。意識を勝手にさまようフィロソフィカルゾンビはどこか自立プログラムっぽい不気味さがある。ずぶぬれの少年が登場が登場したとき、ヒッチコック映画のようにガッ、ガッとカットインする場面があるが、カメラを近づけるのではなく画像そのものを拡大する方式を採っている。荒れた画像がなんともまがまがしい。
 とはいえ本当の新境地は手慣れたホラー映画から怪獣映画に大きく舵を切る後半部だろう。首長竜は予告編にも登場していたのでそう驚きはしなかったし、むしろ苦笑していたふしがあったが、実際にスクリーンに登場するとけっこうぎょっとするんですよね。特に港で姿を現すシーンはすばらしい。あのスケール感、重量感、何を考えているかわからない目、聞いた事もない不快なうなり声…すばらしすぎる。映画の中の怪獣に驚き、恐怖したのは何年ぶりだろう。小学1年生のとき劇場で『ジュラシック・パーク』を見て息を殺したときのことを思い出し、胸が熱くなった。
 それにしても黒沢清映画にあって綾瀬はるかがあんなに浮き立つとは思わなかった。顔面から、肉体(おっぱい)からただならぬ生のオーラを放ってるんですよ。黒沢清という死に神が持ちうる魔力(映画的なテクニック)のすべてを投じても、とうてい封じ込めることができない綾瀬さんの天真らんまんぶり。終盤になると黒沢監督も開き直って、それをドラマの推進力に利用すらしてしまう。なにしろ重要な展開のほとんどを「綾瀬はるかの説得力」で押し通してしまうのだ。ドクターも首長竜も2回も説得しちゃうからね。「お願いします!」「…よし、わかった」みたいな感じで。無敵すぎるじゃないかと。「黒沢清綾瀬はるかに敗北してしまうのか」という当初の見立てはある意味正しかったのかなと勝手におもうことにします。

『桜並木の満開の下に』(舩橋淳)

"Cold Bloom"2013/JP

 こんなに覚えにくいタイトルの映画があっていいのか。でも舩橋淳監督の名前は忘れないでおいたほうがいい。そんなこと私がわざわざ書かなくても昨年のドキュメンタリー映画『フタバから遠く離れて』でその才能を知る人は多いとおもう。私が舩橋監督の名前を知ったのは一昨年に刊行された「全貌フレデリック・ワイズマン」。収録された読み応えたっぷりのロングインタビューで聞き手と翻訳を務めていたのが舩橋監督だった。舩橋監督の質問は実に冴え渡っていて、謎めいた巨匠から重要な言葉を多く引き出すことに成功している。たいへん勉強になった。その翌年に発表されたドキュメンタリー映画はワイズマンのメソッドを起点としながらも、しかしまったく異なるアプローチが実践されている。方法論的な違いもあるけど、私が舩橋とワイズマンで決定的に違うとおもうのは「現実に抗う物語(想像力)」ではないかとおもう。私たちは多かれ少なかれ現実に「物語」を見いだして生きている。こうした「物語化」を拒否するのがワイズマンだとすれば、舩橋は厳しく過酷すぎる現実に抗う人間の想像力を信じている、といえるのではないか。私は舩橋監督のこうした姿勢と「311」は無関係ではないとおもっている。何度か書いたけど、「311」は私たちに物語のもろさ(と同時に尊さ)を突きつける出来事だったから。
 本作は茨城県日立市の映画製作支援制度「ひたちシネマ制作サポートプロジェクト」の助成を受けて製作。企画は「311」以前からあったものの、震災後撮影中止を余儀なくされお蔵入りになっていたのだという。舩橋はそのまま『フタバ〜』の撮影に入ったが、日立市から「映画を完成させてほしい」と打診があり撮影に入った。映画は「311以後の物語」になっているので多少のリライトもあったのだとおもう。
 町工場で働く栞(臼田あさ美)の夫が出張中の事故で亡くなる。事故を起こしたのは夫が目をかけていた後輩の工(三浦貴大)だった。栞は工を許すことができないが、周囲の非難に耐えながら仕事に打ち込む工の堅実さに少しずつ心が変化する。やがて工も栞に特別な感情を抱くようになり…。ストーリーを読んでピンとくる人も多いとおもうが、物語は明らかに成瀬巳喜男乱れ雲』の引き写している。加害者と被害者の悲恋だけでなくストーリー展開やせりふなど随所に『乱れ雲』の影響が垣間見られるので意識的なつくりなのだろう。恋情と罪悪感のはざまでもがき苦しむ男女の王道かつ古典的なメロドラマが展開する。撮影日数はたった11日だったいう。『乱れ雲』とは比べ物にならない低予算映画…なのだが、たとえばこの映画が『東京物語』に挑み壮絶に散った『東京家族』と同じわだちを踏んでいるかといえばそうではない。埋めることのできない喪失感、自分だけが生き残ってしまった罪悪感、不条理で無慈悲な世界への憎しみのなかで、それでも人とのつながりを求めずにはいられない男女のメロドラマは、311を経ることで切実さを増したようにおもう。
 二人が働く町工場を始め、建築物をとらえたショットが相変わらず冴えわたっている。『フタバ〜』を見たときドキュメンタリーとは思えないほどばしっとキマったショットの数々にしびれたものだ。一応日立市の観光映画としての期待されたところもあったろうに、舩橋がとらえる「街」は匿名的でよそよそしい。だからこそそこに息づく人々のぬくもりが胸を打つ。旅館で一夜を明かした朝、栞がそっと工の足首をつかむ。ふたりが肉体関係を結んだかどうかははっきりと示されないが、この官能性はどうだろうか。映画とは関係ないけど、三浦貴大さんは三浦友和山口百恵の息子ですね。成瀬と同じくメロドラマを得意とした西川克己の映画で数多く傑作を残した二人の息子が現代のメロドラマで実直で清潔な男を演じている…なんだか感慨深いものがありました。

覚書(『フライト』『シュガー・ラッシュ』『リンカーン』など)

 月に最低1回は更新を目指しているが、結局4月はそんな余裕もなかった。昨年も4月だけぽっかり空いていたのでそんなものかともおもう。へたくそなりにも文章で飯を食うようになって3年目になる。だんだんと文章を書くことが恥ずかしくなってきた。文章を書くと恥をかくことは同義だという人がいて、まったくそのとおりだと思った。このブログに書いている文章など読み返していると、なんて押し付けがましく鬱陶しいんだろうとすべて消したくなる。とかいって消しませんが。書く時間はなかったが、3、4月に見た映画はどれもおもしろく豊作だったので忘れないうちに書いておきたい。書きませんでしたが日本映画も『舟を編む』『藁の盾』『探偵はBARにいる2』いずれも楽しめました。

『フライト』(ロバート・ゼメキス

"Flight"US/2012

 もうずいぶん昔に見たのでさらっとしか書けないけど、ことし一番語りがいのある映画といえそう。ソフトで見返したらまたじっくり書きたい。既にすぐれた論考がいくつも出ているのだが、航空パニック的な活劇は冒頭40分ほどで終息(その部分もやはりよくできているし手に汗握る)。そこから先は『失われた週末』になるのだが、アルコールや薬物依存症の恐怖を教条的に説くわけでもない。むしろドラッグ、アルコールがいかに楽しいかを景気のいいロックンロールをBGMに描いていく。ジョン・グッドマンふんするコカインの売人が登場するときにはストーンズの『悪魔を憐れむ歌』が、主人公と同じ問題を抱えた女性(ケリー・ライリー)と初めて愛し合う場面にはマーヴィン・ゲイの『ホワッツ・ゴーイング・オン』が流れるなど要所要所で音楽がストーリーテリングの鍵を握る。極め付きは主人公がコカインをキメて証人喚問に向かうとき、エレベーターで流れる『ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ』だろう。本国では爆笑だったのではないか。ドラッグを糧に花開いていったポップミュージックが主人公の享楽を雄弁に語っている。この映画を語る上でもうひとつ重要なテーマが宗教ということになるとおもうが、このあたりはもう2回くらい見て考えたいです。

シュガー・ラッシュ』(リッチ・ムーア)

"Wreck-It Ralph"US/2012

私の家庭にはゲームがなかった。人生で私が触れたゲームといえば、父親が何かの景品で持ち帰ってきたちっちゃなテトリスのゲーム機と友達の家でやった「ロックマン」と「ストⅡ」と「スーパードンキーコング」くらいである。小学生のいとこたちがうちに遊びに来ると数人で集まってそれぞれに携帯ゲームに没頭している。いくらなんでもこれは不健全じゃないのか…と私が非難がましく口にすると(鬱陶しいお兄さんである)、いとこたちの親は決まって「最近の子はゲームがないと友達についていけないから」というエクスキューズを口にする。そんなわけないだろう、とおもう。ゲームを持っていても友達ができないやつはできないんじゃないか。そんなゲーム弱者の私だが、『シュガー・ラッシュ』はとても楽しめた。でもきっと私がゲームにもっと親しんでいればもっと楽しかっただろうなとおもう。私は人生で初めてゲームが家になかったことを残念に思ったのだった。魅力的なキャラクターと世界観、練りに練られたシナリオでこれぞディズニーアニメというべき作品。今後、ディズニーは誰にでも楽しめるウェルメイドな作品群を、ピクサーではフルCGアニメの可能性を模索する実験作を、と差別化していくのだろうか。世界観やストーリーにおいてはピクサー的な作品と見せかけて、終盤に伝統的なプリンセスものに変化していく構成には舌を巻いた。主人公ラルフの心情変化などところどころ雑かなとおもえるところもなきにしもあらずだが、傑作といっていいだろう。

世界にひとつのプレイブック』(デヴィッド・O・ラッセル)

"Silver Linnings Playbook"US/2012

 前作と合わせてラッセル監督のリハビリ2部作ということになるのだろうか。『ザ・ファイター』のオープニングと『プレイブック』のエンディングは、向き合う主人公2人をとらえたカメラが一挙にドリーバックしていく撮影法で呼応しており、視覚的な円環構造にもなっている。単に手癖なのかもしれないが。『プレイブック』のドリーバックは文字どおりふたりが恋に「落ちる」様子を可視化していて、陶酔のあまり涙が出た。ちなみにドリーバックが印象的な作品で、私が真っ先に連想するのはギャンブル狂いのカップルを描いたジャック・ドゥミ監督の『天使の入江』だったりする。関係があるかはわからないが。主人公二人のロマンスを描き方が雑だという評を見かけたがいったい何を見ているのか。アメリカ映画においてダンスというのはほとんど恋と同義語。ダンスコンテストがクライマックスに置かれた時点でふたりは恋に向かっていたのである。

『ジャンゴ 繋がれざる者』(クエンティン・タランティーノ

"Django Unchained"US/2012

 タランティーノアカデミー賞とか獲るようになって、すっかりメーンストリームというか、実際にどんどん巧い監督になっているんだとはおもうのですが、それでも見た後にはいつもスカッとさせてくれるのがいいですね。誰が見ても「きのう超おもしろい映画見てさあ」って言えるような。今回もアクションも音楽も冴え渡っていていっときも飽きることなく見ることができた。マカロニウェスタンとかブラックスプロイテーションとか『マンディンゴ』とかの映画史的な文脈の話はほかの方々にお任せして、私は悪者がどかんと爆発するときの射精感に身を任せようとおもう。

『ザ・マスター』(ポール・トーマス・アンダーソン

"The Master"US/2012

『ザ・マスター』を見てから一月以上経ったが、まだこの映画のことがよくわからない。この映画のホアキン・フェニックスを見て、同じ職場で働いていたMさんのことを思い出した。映画のことはわからないのでその人のことを書く。Mさんは情緒不安定でニヤニヤしているかとおもえば唐突にキレ始めるような人だった。以前は私の部署にいたらしいがあまりに問題を起こすので異動になったのだと聞いた。私も入社当初はたびたび因縁をつけられたいじめられたが、そのうち本や映画の話をするようになった。変わり者だという認識は変わらなかったが、無難な人と無難な会話をするよりも、Mさんの毒づきを聞いている方がおもしろいし気が楽だともおもっていた。ある日Mさんが私の上司に不当な言い掛かりを付け始め、激しい言い争いをしたあげく、帰ってしまうという事件が起きた。どう考えてもMさんに非があった。『ザ・マスター』ではデパートでカメラマンをしているホアキンがニヤニヤしながら客に嫌がらせをする場面があるが、ちょうどあんな感じだった。それからしばらくしてMさんは会社をやめてしまった。忘れたころにMさんから自宅にはがきがきた。五島の草原の写真に「つまらなくも真剣な話、たのしかったです」とだけ書き添えられていた。私はそのはがきを大事にするでもなく、ぞんざいにするでもなく、なんとなく机の引き出しにしまった。しばらくして職場でMさんの話になり、はがきが来た話をすると、みんなが驚いた。はがきが来ていたのは私だけだった。「おまえやばいな!親友やん!」とからかわれ、私は「いやいやいや」と笑いながら返した。返しながらもはがきの話を黙っていればよかったとおもった。帰宅してMさんのはがきをもう一度見て『ザ・マスター』のパンフレットにはさんだ。そこがいちばんしっくりするような気がした。『ザ・マスター』のことを考えパンフを読み返すたびに、彼のことを思い出すだろうから。

リンカーン』(スティーブン・スピルバーグ

"Lincoln"2012/US

 最後の最後まで政治的な思惑に翻弄された『アルゴ』の悪運もそれはそれで興味深かったが、この作品がオスカーを獲っていればオバマ夫人がプレゼンターでも誰も文句は言わなかったはずなのだ。ゲティスバーグ演説奴隷解放宣言、暗殺といった「劇的な瞬間」は徹底してカメラの外に排除された。本来ならスピルバーグの真骨頂が発揮されるはずの南北戦争の場面すら冒頭、申し訳程度に描かれたきり(しかもぬるい)である。リンカーンと息子(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)の関係もこれまでのスピルバーグが執拗に描いてきた父子のテーマに比べて随分と薄味である。ではこの作品は、退屈で眠い映画なのか。そんなことはない。ひたすらに地味で泥くさいリンカーンの「根回し」がなんと尊く美しいことか。トミー・リー・ジョーンズ演じる急進派スティーブンスの「妥協」のなんと誇り高いことか。「平和の対義語は戦争ではない。正義なのだ」という人に会ったことがある。多数決でひとつの正義を選ぶことを私たちはいつから民主主義とよぶようになったのか。まったく相容れることのできない、絶対に許すこともできそうにない「正義」が世の中にあふれている。互いの正義を検証し、互いに諦めながらぎりぎりの接点を見つけることによってしか平和は得られないのではないか。私たちの国では妥協を諦め、楽をしてしまおうという憲法の改正案が上がっている。『リンカーン』は現代の映画なのだ。

アイアンマン3』(シェーン・ブラック

"Iron Man 3"2013/US

最後までわりと楽しんで観たがときめきもなかったですね。私はアイアンマンスーツでは『2』のマークVがいちばん好きで、マークVのシーンだけ何回も見てしまう。ウィップラッシュに襲撃されたトニーにペッパーとハッピーがスーツケース型のマークVを渡そうとするんだけどパニックでうまくいかないんだよ。3人の掛け合いがとにかくほほえましい。そのあとスーツを着るところもかっこいいし、ウィップラッシュのムチにつかまってビリビリとなるところもかっこいい。あのシーンに私が好きなアイアンマンのすべてが詰まっている。だからオートコントロールのアイアンマンがたくさん出てくるのにはあまり興味ないのかもしれない。もっとペッパーやハッピーとの絶妙な掛け合いが観たかったですね。結局いちばんテンション上がったのはエンドクレジット後のおまけと『ソー』続編の予告でした。特に『ソー』の予告には尋常じゃないくらいにやついてしまい、自分がクリス・ヘイムワースとナタリー・ポートマンのカップリングがかなり好きなんだと気づいた。関係ないけどスマートフォンのアプリで『アイアンマン3』のゲームアプリがあって、無料なんですけどめっちゃおもしろいですよ。

ムーンライズ・キングダム』(ウェス・アンダーソン

"Moonrise Kingdom"2012/US

 人形アニメーションで制作した前作を経て、ウェス・アンダーソンの映画はますます箱庭的な性格を強めた。ドールハウスのようなセットと紙芝居のような構図の中で俳優たちがまるで人形のようにちゃかちゃかと動く。不健全とすらいえるほど純化されたファンタジー世界が、自閉した少年少女のモラトリアムに一致している。これでいいのか…と疑いつつも抗えない。このエントリに書いた映画はどれも完成度が高く年間ベスト級の作品だとおもうが私はどうしてもこの箱庭世界に惹かれてしまうのだった。まあ萌えみたいなものなんでしょうか。

『映画ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』(寺本幸代)

"Draemon:Nobita In The Secret Gadgets Museum"2013/JP

 評判のいいドラえもん映画最新作。このブログに全作品レビューを載せたのももう2年以上前になる。当時の私が全作品を観るうえで気をつけたのは、全作品なるべく分け隔てなく評価しようという点だった。一般的にドラえもん映画で評価が高いのは藤子・F・不二雄先生が原作を手がけた作品群だとおもう。それらの作品がすばらしいクオリティであることに異論はないが、だからといってF先生の死後に生まれた作品やキャストリニューアル後の作品を原理主義的に貶めることだけはしたくないと。『恐竜』と『恐竜2006』は圧倒的に前者が優れている…と書いてはいるが、それはキャストがダメだからというのではなく演出、作劇上の問題を根拠とした評価だ。読んでもらえればわかるとおもう。2006年にキャスト、スタッフがリニューアルされてすでに8作目。「わさドラ世代」も成長しオピニオンを獲得し始めるころ。そろそろ「のぶドラ原理主義」の論調にうんざりしているかもしれない。私は「保護者」ではない(そして原作のキャラクターに近い)水田わさびドラえもんにも独自の魅力があるとおもっている。が、これといった代表作がなく歯がゆい気持ちだった。長年監督を務めてきた芝山努の降板も大きいと思う。だから「わさドラ世代」最初の傑作の誕生を素直に喜びたい。
 ここ数年、旧作リメークとオリジナルを交互に製作していたが、今回は久々に2年連続のオリジナル作品。スケール感に乏しい『奇跡の島』に続き、今回の舞台は『ひみつ道具博物館』と聞いたときは正直期待していなかった。やっぱりドラえもん映画にはワクワクしてちょっと得体の知れない世界を見せてほしいわけです。しかし今回はこの限られた舞台設定が功を奏した。まあ、スケールは小さいのは確かなんですけどね。しかし「のぶドラ」を意識しするあまり、風呂敷を広げすぎてストーリーが瓦解してしまうのがこれまでのわさドラ映画の欠点だったとおもうんですよね(その瓦解ぶりがほとんど前衛の域にまで達してしまったのが怪作『緑の巨人伝』である)。ドラえもんをめぐるミステリー仕立てのストーリーにひみつ道具の小ネタをちりばめ、のび太ドラえもんの関係性に着地させる。ほんとに小さな物語だけど意外と今までおろそかにされがちだった部分ではなかったか。ようやくわさドラ世代の『恐竜』にたどり着いた気がしますね。もう今後はオリジナルでいいよ、ともおもうが来年は『大魔境』リメークなのだそうだ。ふむ。

『オズ はじまりの戦い』(サム・ライミ)

"Oz:The Great and Powerful"US/2013

 映画化作品もコアなファンを持っている物語の外伝(前日/後日談)を、一流監督を雇い入れてファンタジー大作として製作する。既に指摘されているように、数年前の『アリス・イン・ワンダーランド』と似た企画である。問題はビジュアルではなく物語の本質的な魅力をどれだけ正確につかんで、今にふさわしいかたちでアップデートできるかだとおもうんです。それができていれば、ビジュアルが違っていても私は楽しめる。『アリス・イン・ワンダーランド』については公開時にも書いたが、「意味から離れた世界」という持ち味をまったく無視して「成長」(しかも単なるビジネス上のテクニックでしかない)という意味づけをした時点で失格だったとおもいます。サム・ライミの『オズ』は軽薄で女好きに奇術師オズ(ジェームズ・フランコ)がオズの国の偉大なる魔法使いになるまでを描いた前日譚、となっている。その是非はともかくとして、ヒーローに祭り上げられた凡人が本当の正義に目覚めていく・・・という物語じたいは悪くない。『サボテン・ブラザーズ』、『バグズ・ライフ』、『ギャラクシー・クエスト』…どれもおもしろいですよね。
 『オズの魔法使(い)』の魅力とはなんだろう。偉大な魔法使いオズの正体はひょうきんで気立てのいい平凡なおっさんだった、という結末自体が重要なメッセージにもなっている。脳がほしいかかし、ハートがほしいブリキのきこり、勇気がほしいライオン・・・彼らは自分がほしがっていたものを初めからちゃんと持っていた。この「初めから持っていた」というのがポイントです。かかしが機転を利かせて意地悪な木からりんごを奪う、ケシの花でドロシーが眠ってしまってティンマンが泣きだす、こわいこわいと言いながらライオンがドロシーのために奮闘する・・・これらの場面を通して観客はキャラクターたちが持っている美点に気がつく。気づいていないのは本人だけなのだ。だからこそオズの「贈りもの」には胸をうたれる。平凡なおっさんにはただの「シンボル」しか与えられない。だけどその品々は彼らの心をどんなに励ましてくれるだろう。「やっぱりオズは偉大な魔法使いやー(´;ω;`)ブワッ 」となるわけですよ。
 そんなオズの青年期を描くのであれば、自分は平凡だとおもっていた人間が自分の中に初めから持っていた「偉大さ(=善意)」に気付く物語となるだろう。でも劇中でオズに初めから「偉大さ」の資質があったという描写がいまひとつ弱いんですよね。ずっと魔女たちとちゅっちゅちゅっちゅしていただけにしか見えない。そもそも偉大なオズがグリンダともセオドアとも関係を持つというのはやはりどうも・・・。というより西の魔女ちゃんがダークサイドに堕ちた原因がオズとの失恋っていうのはどうなのか。
 あまり比べるのもなとはおもうが『オズの魔法使』を見ていて驚くのは、監督が意図しなかったいろいろなものがたくさん映ってることなんです。オズの国の実在感や豊かさにつながっている。今回のオズの世界はCGだから基本的に意図しないものは映りえない。だからなにかとてもよそよそしくて空虚な世界のように見えてしまうのだった。陶器の少女はかわいかった。あれはほしい。アメリカではもう一本『Dorothy of Oz』というCGアニメ映画が控えていますね。見た感じディズニーの85年作『Return to Oz』(DVD化を!)の基になったボームによる続編を映像化しているようだが、日本で公開されるのだろうか。

『リンク』(リチャード・フランクリン)

"Link"UK/1984

 「ヒッチコック『鳥』のアニマルトレーナーが魅せる」というよくわからない枕ことばが冠せられたイギリス映画。IVCのカルト作掘り起こしシリーズ「VHS発掘隊」のラインアップ。動物パニック好きとしては見逃す手はないと即購入しました。監督のリチャード・フランクリンは『トパーズ』でヒッチコックの下で働いた経験もあり、後に『サイコ2』でメガホンを取るなど、ヒッチコック真の後継者と言われていたそう。DVD解説で中原昌也から「誰に?」と突っ込まれてはいるが、「『鳥』のアニマルトレーナーが魅せる」というキャッチフレーズもあながち的外れでもないのかもとおもえてくる。
 ロンドンの大学に通う主人公(エリザベス・シュー)が、霊長類学の教授(テレンス・スタンプ)を手伝うために人里離れた屋敷を訪れる。そこでは洋服を着て屋敷の執事のように振る舞うチンパンジーのリンクがいた。やがて教授は姿を消し、電話も不通となる。屋敷に孤立してしまった女子大生にリンクは好色な視線を送るのだった。ほぼ全編の舞台となる屋敷の設計がよくできています。階段や天窓、井戸、地下室などを効果的に用いることでスリリングなドラマが展開。人間のように振る舞いながらも結局、異形の者でしかないリンクのキャラクターと結末は『フランケンシュタイン』をほうふつとさせる。ゴシック調の屋敷の美術とあいまって極めて正統派のモンスター映画に仕上がっている。テレンス・スタンプはいかれたサイエンティストを喜々として演じていて、途中退場ながらも強烈な印象。同時期の『グレムリン』と通じるゴールドスミスのハイテンションなスコアもかっこいい。
 まあしかし特筆すべき存在はタイトルロールを演じたオランウータンだろう。劇中ではチンパンジーということにされているが、オランウータンに演じさせたことは正解だったとおもう。シャワーを浴びようとするエリザベス・シューを視姦するねっとりとしたまなざしが不気味だ。ああいう表情はチンパンジーでは出せなかっただろう。エリザベス・シューの脱ぎっぷりももちろん貴重だが、ヒロインが自分の危険をはっきりと認識する重要な場面でもある。というのも動物パニックというジャンル映画の成功は、モチーフとなる動物の「怖さ」をいかに引き出すかに懸かっているとおもうんですね。その意味で『リンク』は成功しているといえる。単なる獰猛性、野蛮性ならほかの動物でもいいわけです。でもサルには知性がある。これがなんとも怖いわけですね。通常の動物パニックだと「食われる」「殺される」恐怖なのが『リンク』の場合はレイプされる恐怖というのも新鮮だった。エリザベス・シューもうら若いのでので観ている側もはらはらします。限られた登場人物、予算、シチュエーションのジャンル映画でも、見せ方でいかようにも面白くなるという典型のような良作でした。

【VHS発掘隊】リンク ~密室アニマルパニックホラー~ [DVD]

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『横道世之介』(沖田修一)

"Yokomichi Yonosuke"2013/JP

 アカデミー賞レース作品の公開ラッシュのさなか、日本映画の傑作がひっそりと公開されている。一部の映画ファンですでに注目を集めている沖田修一監督の最新作。これまでより公開規模も大きいこの作品で誰もが無視できない才能として知られることを期待します。
 まず吉田修一氏の原作がすごい。大学進学のため長崎から上京した平々凡々な青年、横道世之介の1年間を淡々とつづったもの。吉田氏は、2009年4月1日から翌年3月31日という期間で連載依頼を受け、「最も劇的な一年を描こう」と大学生活最初の一年間を選んだという。つまり連載当時の読者は毎朝『横道世之介』を読むことで、文字通り「世之介と同じ一年間」を過ごすことができた、というわけだ。さらに春夏秋冬の季節ごとに、世之介と関わりを持った4人の登場人物のその後も描かれる。何の脈絡もなく文体が変わって困惑するが、読み進めていくうちに「あ、これあの人だ」とわかる構成になっている。新聞連載というメディアを最大限に活用した巧みなプロットとストーリーテリングにうならされる傑作です。そんな作品を沖田修一監督が映画化する、と聞いた時点でなんとなく「勝ったな」と感じていた。沖田監督の、とりわけ同性同士の会話劇に宿る独特のおかしみが原作の持ち味にぴったりはまるとおもったからだ。果たして予想は的中した。
 『横道世之介』は人間賛歌の物語である。吉田氏は『悪人』をはじめ、人間の生々しい悪意を描くとき卓抜した資質を発揮するが、ここでは一人ひとりの人物をユーモラスに愛情たっぷりに描くことに腐心している。平凡な人々の平凡な日々、ありきたりな人々の営みが何物にも代えがたい輝きを放つ。何げないやりとりからにじみ出る人情と機微が、誰の人生にも美しく気高い瞬間があると教えてくれる。読んだ後、世之介が、祥子が、倉持が、加藤が、本当にいるとしか思えない。彼らのことを昔から知っているような気がしてくる。ついつい「この間、世之介がさあ・・・」なんて口にしてしまうかもしれない。
 そんな愛すべき登場人物たちに高良健吾吉高由里子を始めとする俳優たちが命を吹き込んだ。沖田監督は彼らのありきたりな、だからこそかけがえのないやりとりを的確なショットで真空パックしてみせる。相変わらずカットが長くゆったりしているのに、新宿駅の人混みの中に世之介(いかにもあか抜けない高良くんのたたずまい!)が登場した瞬間から映画はいっときも弛緩することはない。むしろ映画内の時間の流れに観客が自然と巻き込まれていく。見ているうちに呼吸や体温が自然と「沖田基準」に合わさっていくんですよね。『横道世之介』に限らず、沖田作品共通の魅力だとおもう。
 近藤龍人の撮影もいつもながらすばらしい。ここのところ藤井勇(照明)とのコンビネーションで『マイ・バック・ページ』、『桐島、部活やめるってよ』など傑作をものにしていますが、本作はベストワークかもしれない。クリスマスのキスシーンやラストの長回しは身もだえするような多幸感だ。そして、35ミリフィルムの質感が泣ける。もう二度と戻ってこない青春の光景ともう二度と見ることができなくなる35ミリフィルムの映像がこれ以上にないくらいマッチしてしまって、「ああ、今、映画を見てる」っていう幸せと、この幸せをいつか忘れてしまう切なさで胸がいっぱいになる。私はこの平凡な幸せを、いったいいくつ忘れてしまうのか。これまでに出会った世之介たちを、これから出会う世之介たちを私はきっと忘れてしまう。思い出すことのできない誰かに会うために、この映画を何度も見返すだろう。
最後に、この映画の公式HPに載っていたみのもんたのコメントを紹介します。

この映画、すべての国会議員に観てもらいたいな。
日本の政治が変わるかもしれない。だって当たり前のことが、
ある日突然、当たり前でなくなったら、どうしたらいいんだろう。
生きるって、生きていることって、何なんだろう。
結構、爽やかな余韻が残る映画だ。

えっと、
それ何の映画ですか?

『アニー』(ジョン・ヒューストン)

"Annie"US/1982

 4月に『アニー』のブルーレイが出る。最近のソニーピクチャーズは廉価盤で特典映像を大幅に削る傾向があるので心配になった私は、一足早く北米盤(日本語字幕も吹き替えも入っている)を購入することにした。結局、国内盤も同じ仕様で出るようだがそれでも北米盤の方が安くつく。特典は目新しいものはなかったが、画質と音質は飛躍的に向上した。そんなわけで、せっかく買った『桐島』のブルーレイも差し置いて、毎日『アニー』ばかり見ている。
 数年前、映画研究者の大久保清朗さんのブログを通してこの映画に出会った。「もうすぐアニーだ。そう思うだけで心が落ちつかなくなってくる」というあられもないラブレターで始まる素敵なエントリー。「階段の映画」という松浦寿輝氏の指摘を基にしたアクション考察に始まり、映画にひそむ奇妙な偽善性、政治性にまで踏み込む。無料で読むにはちょっと忍びないくらいぜいたくな論考となっている。セロテープで補強したパンフレットの表紙画像が添えられていて、幼稚な表現だが、氏と映画の間に簡単には立ち入ることができない「きずな」を感じたものだ。当時の私は、氏が別のサイトで寄稿した『サウンド・オブ・ミュージック』の論考を読んでからというもの、氏のミュージカル映画論に絶大な信頼を寄せていたので、『アニー』もすぐに見た。そして大いに笑い、涙ぐみ、ほんのちょっと困惑したのだった。
 『アニー』は乱暴な映画だ。名曲「トゥモロー」が劇中で歌われる場面など、乱暴さの真骨頂である。『アニー』を見たことがなくても、劇中歌の「トゥモロー」を知っている人は多いだろう。そんな人は「トゥモロー」がこんなかたちで使われていることに困惑するにちがいない。大久保氏が指摘するとおり、この映画の「政治性」に目を向けずにいることは普通の大人には難しい。共和党支持者のウォーバック氏とフランクリン・ルーズベルト大統領がアニーにつられて「トゥモロー」を歌い出す(後ろにはジョージ・ワシントン肖像画!)。「何かメッセージがあるのかしら」とかんぐってしまう。アニーの歌声が、「トゥモロー」の流麗で力強いメロディが、イデオロギーを乗り超えて凱歌を上げる。あまりの衒いなさにあきれ、笑う。何これどういうこと?っておもいながら、何回も見てるといつのまにか泣いている。自分でもびっくりする。まじでか!
 だいたいこの映画では、誰もがすぐにアニーのとりこになり、言うことを聞いてしまう。まるで魔法か超能力を使ったように。というより本当に魔法か超能力を使える人物さえ登場する。ほとんど腕ずくでことを運んでいくジョン・ヒューストンである。「ゾウだってぶっ殺すぜ!」といわんばかりである(ラストにハイネガンさんがゾウに乗って登場する場面はちょっと緊張する)。ヒューストンが『アニー』の監督にアナウンスされたときの周囲の反応はどのようなものだったのだろう。誰もがそんなばかなと思ったにちがいない。私だって大久保氏の文章を読まなければ「きっとダメなときのヒューストンだろう」といつまでたっても見ようとしなかったかもしれない。それから1982年はミュージカル映画にとって長い長い冬のさなかだ。大久保氏の文章は「今こそ、臆することなく『アニー』を見直すべき」と結ばれているが、公開当時の『アニー』は今よりずっとアナクロだったに違いない。『アニー』を見ているとこれが80年代の映画だということをしばしば忘れてしまうほどである。
 実際、公開当時の『アニー』の評価はあまり芳しくなかったようだし、今でも駄作と言い切る人はいる。その言い分もわからなくはない。『アニー』はミュージカルパートもドラマパートもとても丹精に撮られているし、ため息が出るほど美しいショットがいくつもあるが、前述した場面のように端々で乱暴さや野蛮さを感じる。それはヒューストンがミュージカル映画を作るの乱暴さでもあるし、80年代にMGM製のような王道ミュージカル映画をつくる乱暴さでもあるのだろう。そして、この乱暴さが『アニー』という映画をどうしようもなく輝かせる。大恐慌で暗く沈んだ時代の孤児院で、アニーが持ち前の明るさ、そして乱暴さで周囲を幸福な空間に変えていったように。私にとって映画じたいが、少女アニーそのものなのだ。
 ウィル・スミスが娘ウィロウ・スミスのために随分前から進めていた『アニー』の再映画化ではウィル・グラックが監督に抜てきされた。ジョン・ヒューストンとちがって適役である!と久々に興奮。肝心のウィロウ・スミスは成長しすぎてしまったため主役降板。代役にはクヮヴェンジャネ・ウォレスが候補に上がっている。リメイク版『アニー』はずいぶんと恵まれた妹である。きっと美人(傑作)になるだろう。でも私は、乱暴で、愛くるしい姉ほど愛せるだろうか。

『特命戦隊ゴーバスターズ』

"Tokumei Sentai Go-Busters"2012-2013/JP

 スーパー戦隊シリーズの第36作『特命戦隊ゴーバスターズ』が終わりました。昨年の『海賊戦隊ゴーカイジャー』ほどのお祭り感はなかったのですが、さまざまな新機軸やかっこいいアクションとガジェット、魅力的な登場人物、小林靖子ならではの安定したシナリオ構成で一年間とても楽しめた。アニバーサリーシリーズであった『ゴーカイジャー』を経て、デザインやコンセプト、構成など随所に新しい試みを見られた意欲作。視聴率こそ苦戦したようですが、スーパー戦隊史におけるエポックメイキングな作品としてきっと評価されるだろう。しかし、それ以上に重要だったのは『ゴーバスターズ』は311以降、初の戦隊ヒーローだったという点だ。架空のエネルギー「エネトロン」をめぐる戦いという設定からも製作者側が「311後の世界」を強く意識していたことがうかがえた。結論からいうと残念ながらエネルギー問題については当初の期待ほど深く掘り下げられることはなかったが、「取り返しが付かない悲劇」を真正面から描いた点は評価したい。13年前に家族と離れ離れになったゴーバスターズのメンバーは「全部元に戻す」ということをモチベーションとして戦ってきたが、中盤で「元には戻せない」ということが明らかになってしまう。私もいち視聴者として最終回には「すべての人々が救われるハッピーエンド」と楽観視していたふしがあるので、ストイックな展開にはかなり驚いた。「311以後」の子どもたちに向けて物語を紡いでいく―。そんな覚悟さえ感じられた29、30話は涙なしには見られない屈指の傑作回になっている。31話以降は結果としてこの2話のテンションを上回ることはなかった気もしているが、コミカルとシリアスの配分もよく、飽きずに見ることができた。正直に告白すると私が『ゴーバスターズ』を熱心に見ていたモチベーションの9割は小宮有紗さん演じるイエローバスター/宇佐見ヨーコの健康的な美しさだったんですけどね。アクションも頑張っていたし、天真らんまんでちょっと生意気なキャラクターも小宮さんのルックスと見事に合致していて近年の戦隊ヒロインの中では断トツの素晴らしさでした。何より1年間通してあの衣装で頑張った小宮さんのガッツもたたえたい。「小宮有紗」や「宇佐見ヨーコ」でグーグル検索しようとすると候補に「ふともも」と出てくるのはどうかともおもいましたが、それだけトレードマーク化したことの証左だろう。小宮さんがエゴサーチして、自身のスレッドが「小宮有紗ちゃんのムチムチふともも●本目」というタイトルであることにショックを受けないことを願うばかりです。戦隊ヒロインはちびっこにとってのセックスシンボルという側面もあるので面目躍如ですよと励ましたい・・・。小宮さんを始め、西平風香さんが演じた司令室オペレーター・仲村ミホ、水崎綾女さんが演じた悪のヒロイン・エスケープと女性陣が健闘したシリーズだった。三者三様の魅力があってよかったです。水崎さんは傑作『キューティーハニー THE LIVE』でもりんとした存在感を示していたが、やはり特撮ばえする女優だとおもった。いつか坂本浩一監督にも演出していただきたいものです。悪役といえば陳内将さんが演じたエンターにも触れておきたい。久々に第1話から最終話までを貫徹したレギュラー悪役となった。やっぱり悪役はこうでなくちゃね。慇懃で芝居がかったキャラクターは昨年のバスコにも通じますが、整った顔立ちでデータらしい表情を体現した陣内さんの演技により、また違った魅力を放つ名悪役になった。バスコと同様、途中から戦闘向きに変身するパターンとなりましたが陣内さんじたいの身体能力も非常に高く、かっこいいアクションシーンを何度も見せてくれた。悪役レギュラーは中盤から登場したエスケープとのふたりだけでしたが、必ずしも協力し合わない独特の関係性で動いていてドラマを奥深いものにしてくれた。俳優が演じる悪役の魅力を再認識できたシリーズでした。次作『獣電戦隊キョウリュウジャー』の悪役側は残念ながら、現時点ですべてきぐるみとわかっているのですが、リーダー格と4幹部、さらに背後にラスボスが潜むというストレートな組織図となっているので『ゴーカイジャー』では成し得なかった濃密な仮面劇を期待したい。シリーズ全体も一転してチャイルディッシュな方向性のようですが、ライダーシリーズから監督・坂本浩一と脚本・三条陸が登板、既に注目が集まっている。『ゴーバスターズ』とは違ったニュースタンダードを築き上げてほしいです。