Devil's Own

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ジャック・ドゥミの『ローラ』


 『シェルブールの雨傘』及び『ロシュフォールの恋人たち』のリヴァイヴァル上映もいよいよ始まった。*1これに伴って都内では、『ローラ』、『天使の入江』、『ロバと王女』などのジャック・ドゥミ作品群もちらほらと上映されていて、そのためか「ジャック・ドゥミ ローラ」という検索ワードで当ブログにたどり着く人たちが最近多い。『ローラ』は、僕も勿論見に行った。驚いたことに「ジャック・ドゥミ ローラ」でググると当ブログが一番上にくるのだ。*2僕にとっては光栄なことだけれども、映画にとっては甚だ不幸なことだとも思う。
 映画との出会いにもタイミングがある。2年前の割と大規模なドゥミのレトロスペクティヴで、初めて『ローラ』という作品に出会ったときの、あの胸の張り裂けるような気持ちは忘れられない。昔から好きだったけれど、映画には趣味や娯楽で片付けることの出来ない、心臓を素手で掴まれるような恐ろしくて魅惑的な魔力がある。そのことを初めて突きつけたのが、『ローラ』だった。精神的に色々と参っていた時期でもだった。誰でもそういう経験はあると思うけれど、自分を含めたすべてが無意味で馬鹿らしく思われたのである。物語に登場する自暴自棄なニヒリスト、ローラン・カサールが、ローラと出会うことで人生の中に希望を見出したように、僕自身も『ローラ』という物語を通して、世界を肯定する気持ちになれたのだ。まったく、おめでたい話である。軽薄なポップミュージックで「元気をもらえる☆」とか嘯いている愚か者とまったく同類だ。だから、僕には『ローラ』を語る資格がない。僕は、『ローラ』を私物化してしまっている。そんなパーソナルな自己憐憫を映画に託すべきではないし、そういった文章が広く利用される検索エンジンで最初にヒットするのは、あまりよくないことだと思うのだ。
 だからこの映画について、もう少し客観的な文章も書きたいとおもったのだが、もう八百億回くらい見ているのに、全然言葉が思いつかない。陳腐な表現だけれど、イメージがぼろぼろこぼれてしまうのだ。この映画のラストは「喪失」と「充足」という相反する感覚を同時によびさます。人を愛するという行為がかかえる喜びと悲哀が同時に押し迫ってくる。この引き裂かれるような感覚の意味をつかみ出すのに、一生を終えてしまうかもしれない。ジャック・ドゥミはそれを90分弱のシナリオで饒舌に語りきっている。本当に打ちのめされる。打ちのめされて、そこでいつも言葉に詰まってしまう。哀しみと確かな希望とスーツケースを抱えて、港へ歩くローラン・カサール。その後姿を追って振り返るローラ。どうしたのかと問いかけられると、彼女は一言「別に」である。泣ける。

*1:フィルム上映じゃないらしいんだけど。

*2:キーワードリンクがあるので基本的にはてダはグーグルに引っかかりやすいという特性があるのだけど。