Devil's Own

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『レイチェルの結婚』


 傑作だとおもった。興奮した勢いで、お世話になっている映画批評家の先生にメールしたのだが、「デミが傑作とか嘘でしょ(笑)」と一笑に付されてしまった。なるほど、いくら映画に明るくてもトーキング・ヘッズニール・ヤングに興味がない人なんてたくさんいるだろう。そういう人たちにとって、デミが傑作をモノにするのはにわかに信じがたいことかもしれない。だが一方で優れた音楽ドキュメンタリー作家としてのジョナサン・デミを認識している人もたくさんいるだろうし、そういう人たちにとってデミの代表作は、『羊たちの沈黙』よりもむしろニュー・オーダーの名曲「パーフェクト・キス」のビデオクリップだったりする。12インチ盤のフルレングスで「パーフェクト・キス」が聞けるのはあのビデオだけだしね。
 ドキュメンタリー作家としての資質を最大限に発揮することで、デミはこの映画を傑作にすることができた。「もっとも美しいホームビデオ」を目指したという本作は、ほぼ全編が手持ちカメラで撮影され、リハーサルや細かいショットの打ち合わせなどは一切行わなかったという。実際に俳優たちの演技は自然体そのもので、ほとんど即興芝居を見ているような気にさせられる。しかし、科白に関してはジェニー・ルメットのシナリオにかなりの部分準じているというから、本作がデビュー作となる名匠の娘の仕事も注目されるべきかもしれない。
 ドキュメンタリータッチという言葉も、今の時代はかなり危うい響きがある。ぐらつくカメラワークを愚直に模倣しただけのポーズとしての「ドキュメンタリータッチ」が氾濫していることもあり、難色を示す人も多いだろう。僕もその点に関して心配がなかったわけではないが、まったくの稀有であった。『レイチェルの結婚』は、小手先のテクニックに満ちた今日的な「ドキュメンタリータッチ」とは一線を画しており、その感覚は70年代あたりの準古典ともいえるアメリカ映画を彷彿させる。やさしさと疎ましさが同居する不安定な家庭へと寄り添い、映し出していくアプローチを支えているのは、古典的な劇映画の方法論から逸脱しながらも新らしいスタンダードを確立していったアルトマン*1やカサヴェテスといった監督たちの知性だといえる。
 薬物中毒で施設への入退院を繰り返しているキム(アン・ハサウェイ)は、姉・レイチェルの結婚式のために施設から帰省する。結婚式の前後の3日間の様子を時間軸に沿ってとらえているのだが、物語が進むにつれて一家が抱えている暗い過去と埋めることのできない亀裂が露呈していく。アン・ハサウェイは、過剰な加害者意識と被害者意識が綯い交ぜになったキムの居心地の悪さと苛立ちをうまく演じきっている。フラジャイルで少しだけ偽悪的なキムの人物像は『17歳のカルテ』のウィノナ・ライダーアンジェリーナ・ジョリーを思わせる。
 ホームビデオの撮影者は、結婚式の準備に奔走する家族たちの中にぴったりとおさまっている。にもかかわらず、その眼差しはどこか冷たく、よそよそしい。登場人物への親近感や熱度といったものが驚くほど希薄であり、家族間の心に潜んだ病巣を冷酷に抉り出していく。ゆえに、その寡黙な眼差しと一体化するうちに観客は、断絶された暗い世界から、亡霊となって彼らを覗き見ているかのような錯覚におそわれる。というよりも、後半に進むにつれて、この眼差しが本当に亡霊でものであることが明らかになってくる。たとえば、自動車事故の場面は明らかに本編中のあるエピソードを踏襲しているし、結婚式でキムが灯篭舟を流すところではさらに決定的なショットもある。デミ自身も説明しているが、この映画は「家族にとって忘れられない死者」によって撮られたものだといえるだろう。死者は、孤独の淵から家族を見つめ続ける。自分を置き去りにして「生き続けている」家族へ送る視線は、どこか寂しげで、やさしくもある。家族を断罪しているようにもみえるし、一方で祝福しているようにもみえる。いずれにせよ、ひとりぼっちで忘れ去られた撮影者が、音楽を奏でながら生を謳歌する人々を見つめ続けるラストカットには胸をうたれる。
 最近『トウキョウソナタ』をDVDで見返していて思ったのだが、家族という共同体は、安全圏のようにみえて実はもっとも暴力を肯定してもいるのではないか。その暴力は、たとえば『チェイサー』のように即物的な痛みや憎しみだけに還元することができない。突発性の集中豪雨のように、苛烈に人々の上を通り過ぎていき、生々しい痕跡だけを残して消滅する。とても不可解で儚い。この映画にも、キムとその母親(デブラ・ウィンガー)が殴りあう場面が演じられるのだが、お互いの顔を殴打した後、ふたりとも驚愕した表情をを浮かべ、自分の暴力を理解できずにいる。そして翌日には殆ど「なかったこと」のようにされているのだ。家族の中においては、暴力を引き起こした憎悪も、暴力が引き起こした痛みも忘却され、暴力そのものだけが宙吊りとなって残される。これは、即物的な暴力に限ったことではなくて、キムとの口論の最中にレイチェルが自身の妊娠を告白する場面にも見ることが出来る。それまでのギスギスした雰囲気がレイチェルのカミングアウトによって一転、お祭り騒ぎになってしまい、手をとり抱き合う人々の中で、真面目に議論していたキムだけが取り残されてしまうのだ。ジョン・フォードがクライマックスで堂々とやってそうな展開ではあるが、ここでの「お祭り騒ぎ」は、それに与すことのできない個人を一切受け付けない不寛容な壁として立ち現れる。これもある種の暴力といえないだろうか。
 血のつながりだけを根拠として楔のようにまとわりつく「家族」という共同体。その疎ましさと温かさが、結婚セレモニーの多幸感の中で溶け合っていく。パーティーシーンでは、ジョナサン・デミと交遊のあるアーティストたちがそれぞれ歌ったり踊ったりしているのだが、それがどこかの野外フェスのようにピースフルで気恥ずかしい。それでいて、いまいちパーティーにも溶け込むことの出来ないキムの心情を描出することにも余念がない。この映画は『トウキョウソナタ』のような結末はとらない。翌朝、一瞬だけひとつになったかに見えた家族は、ゆるやかに離散してしまうのだ。それは少しの感傷と寂寥を伴う。キムは、ひとりぼっちになって施設に戻るのだけれど、最初よりちょっと明るくて優しい。家族はまた集まるかもしれないし、ひょっとして二度と集まらないかもしれない。それもまたいいだろう。さよならを言うことは少しだけ死ぬことかもしれないが、家族ではさよならを交わすことすらできない。

*1:エンドロールでは娘のシナリオを紹介したシドニー・ルメットや本作に出演しているデミの師匠ロジャー・コーマンの名前と並んでロバート・アルトマンに対しても感謝の気持ちが捧げられている。