Devil's Own

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東映ヒーロー劇場版に見る「電王」の失速、「ゲキレンジャー」の加速

 実家に帰っていて、家ではブロンディのベスト*1ばかり聴いています。東京では魅力的な上映を沢山やっているのだけれど、それは勿論見に行きたいけど、ここでは叶わない。こういうとき本当に深刻な格差を感じる。やっぱり地元で就職とか無理かもなと思う。
 こっちに帰る前にアルトマンの「三人の女」を観て、ぶっ飛んだ。上映中泣きそうになったり、吐きそうになったり、イキそうになったり、心が滅茶苦茶になった気がする。が、「ナッシュビル」同様こうやってキーボードを前にすると、その感動をまったくもってアウトプットに還元することができない。多分、本当に素晴らしい映画や音楽というものはそういうものなのだと、なんとなく悟った気がした。
 逆にあまりにすらすらと語ることが出来る映画も観た。「劇場版仮面ライダー電王俺、参上」及び「電影版獣拳戦隊ゲキレンジャーネイネイホウホウ香港大決戦」がそれで、これも帰省前にちびっこに混じりつつ見てきたのだが、色々と思うところがあったので、そのことを、書く。
 知り合い三人で劇場に行ったのだが、「電王」と「ゲキレン」どちらもちゃんと観ているのは僕一人で、二人とも「電王」目当てだった。会場の子ども達や家族連れの反応をみても、明らかに「電王」の方が人気のようだったし、時間配分や構成からも東映が電王の方を重点的に制作していることが窺えた。異色作ではあるが、子どもにわかりやすいストーリーテリングやキャラクター設定で、「電王」は着実に視聴者の心を摑んでいる。
 僕自身も電王は久々にハマったライダーモノで、特に序盤1クールの面白さは目覚しく、一月に一度はイベントを
設けつつも個々のエピソードを描きこもうとする脚本の小林靖子の手腕が存分に活かされた傑作だという確信を持って見ていた。雲行きが怪しくなってきたのは、劇場版とのリンケイジが始まった第23話以降で、これまでの劇場版が本編とは直接関係しないパラレルワールド的世界観の基で制作されていたのに対し、今回は劇場版としっかりリンクを見せるということで、試み自体は評価できるのだが、劇場版のための宣伝文句を詰め込み過ぎるせいかストーリーへの言及が疎かになる回が続出している。初期では、イマジンとの契約者は過去に何らかのわだかまりを持っており、それを取り戻したいという願望をイマジンに付け込まれるという構図が多く、故に契約者であるゲストキャラクターがどう過去に清算をつけていくかが見所のひとつとなっていたが、劇場版とのリンクを見せた最近ではゲストキャラクターの背景が丁寧に描きこまれるエピソードが激減し始めてしまった。それでもジーク登場回である23、24話まではまだまだ見所があったが、それが過ぎると今度は本格的に本編が劇場版の宣伝へと成り下がってしまい、それが現状でも続いている。劇場版で言及できなかった部分を、本編で上手く掬い取り補完しているなら理想的なリンクとも言えるが、これでは商業主義が作家性に先行した状態といわざるを得ないだろう。そして肝心な劇場版はといえば、新フォームの登場、全フォームの揃い踏み、ゲスト出演、など様々な要素を詰め込むだけ詰め込んだはいいがそれぞれの要素には全く必然性がなく劇場版のための劇場版となってしまった。恐らく、企画段階で劇場版に持ち込む要素が殆ど決まっており、その制約下でのシナリオ制作が要求されたために、最終的には瓦解してしまったのだろうが、その失敗が好調だった本編にまで影響を及ぼしているのが深刻だ。脚本担当の小林としては渡辺浩之演じる仮面ライダー牙王の人物造形や、中盤での記憶をなくした良太郎とモモタロスの会話シーンなどを描きこみたかったのだろうなと思う。その片鱗は垣間見えるが、やはり条件が厳しすぎる。全体的に脚本家小林を擁護する論調になってしまったが。とりあえずジークには劇場版で華々しく散って欲しかった。
 一方、「電王」のオマケのような印象の「ゲキレンジャー」は時間制限からの詰めの甘さも、テンションの高さで突っ走り、意外なほどの完成度を見せている。これは本編にも言える事で、ヒーロー側と敵側の相互が己を磨き、成長し、激突するという解りやすい構図をあくまで重視することで確実に面白くなっていると感じる。そのドラマツルギーは、ヒーロー・ジュブナイルの黄金律でもあるジャンプ三原則「努力・友情・勝利」を正しく踏襲するものであり、シリーズに復帰した塚田英明プロデューサー*2も当初からこのようなスポ根ドラマ的方向性に意識的であったようだ。「ゲキレンジャー」はいつの時代にもこの鉄則が有効であることを証明してみせる作品と言えるかもしれない。本編におけるイベント性も劇場版宣伝のために失速気味の「電王」に比べてますますテンションを上げているし、当初は説明調だったゲキレンジャーメンバーのキャラクターも、回を重ねるごとに魅力を帯びている。特に、心・技・体、それぞれの分野を得意とするラン、レツ、ジャンの三人が、更なる高みである過激気(カゲキ)を習得するためにそれぞれの不得意分野で師範と三番勝負を行うエピソードが素晴らしい。このような展開は、登場人物のキャラクターが設定された紋切り通りのワンパターンに陥ることを回避し、逆に性格的深みを描きこむのに効果を発揮した。特に技を重んじるクールな芸術家気質という設定のゲキブルー・深見レツの人物造形が、ここ数回のエピソードでぐっと魅力を増した。
 さて、その辺の性格分析はまた次回のエントリに譲るとして、今回の劇場版の大きな見所が、本編では対立関係にあるゲキレンジャー3人と臨獣殿アクガタの2人が、第三勢力を前にして共闘するという展開である。ヒーローと敵側の共闘といえば、あの名作「鳥人戦隊ジェットマン」を思い出すが、このような意図的な掟破りは、敵側のキャラクターに魅力があって初めて成立すうるものである。ただその点においては、実はゲキレンジャーは的確すぎるといっても過言ではない。本編主題歌を見ればわかる通り、このシリーズではゲキレンジャーとアクガタがほぼ同格に扱われており、最初から敵サイドを魅力的に描くことに腐心した作品だといえる。特に平田裕香演じるメレは、メインエピソードも既に数回設けられており、近年の悪役女幹部では異例の人気を博している。演技も一番上手いしなぁ。
 更に、劇場版でゲキレンジャーとアクガタを潰そうとする第三勢力メカンフーの使い手、ヤンとミランダには、高速戦隊ターボレンジャーなどで悪役を演じた石橋雅志とインリン・オブ・ジョイトイが起用され、大いに盛り上げた。インリンは科白は棒読みで演技も素人同然だったが、ワイヤーアクションでメレを威圧するシーンが素晴らしく、途中片腕だけメカ化するなど悪役としてはなかなかの存在感を見せた。ベテラン石橋雅志演じるヤンは、吹き替えも含むアクションシーンが見所だが、堂々と「世界征服」と言ってみせる王道悪役ぶりがはまっていた。味方サイドの客演としては香港秘密警察ラオファン役の小野真弓が挙げられるが、小野真弓老けたなぁという感慨意外は特になし。
 ラストの怒涛の展開は多少の矛盾点の指摘を差し挟むことを拒否するテンションの高さで、正しい劇場版とはこういうものだという手本のような出来だった。上映はこちらのほうが「電王」より先で、かなり盛り上がっただけに、「電王」の瓦解ぶりが目立つ結果と成ってしまったと思う。いずれにせよ「獣拳戦隊ゲキレンジャー」はスタート時の心配をよそに加速度的に面白さを増している。今回の劇場版で多くのファンが「電王」から「ゲキレン」に流れたのではないか。
 余談だが、赤青黄のボディースーツを持つゲキレンジャーに、緑黒のカラーを基調とするアクガタの2人が加わるという構図に、超獣戦隊ライブマンを想起してしまったには僕だけであろうか。元々、黒と緑は画面上で似通ってしまい戦隊に暗い印象を与えるために、全戦隊ヒーロー中でも正規メンバーの中でブラックとグリーンが共存しているのは「超獣戦隊ライブマン」のみなので、ゲキレンジャーにアクガタを加えた5人の佇まいはどうしてもライブマンを彷彿とさせる。胸のど真ん中にライオンの頭部をあしらったゲキリントージャの姿は正しくライブロボだったが、偶然だったのか。 

*1:

The Best of Blondie

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*2:塚田Pは2004年の「特捜戦隊デカレンジャー」と翌年の「魔法戦隊マジレンジャー」という二つの仕事を成功させている現在の戦隊シリーズにはなくてはならない存在だろう。