Devil's Own

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『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編] 叛逆の物語』(新房昭之、宮本幸裕)

"Puella Magi Madoka Magica the Movie Part3:Rebellion"2013/JP

 悲壮すぎるストーリーと深いテーマ性で一躍ムーブメントを巻き起こしたシャフトの傑作アニメの劇場版第3作。話題作なので段階的にネタバレしていきます。テレビシリーズの総集編だった前2部作を経て、今回は完全新作の続編です。一応、前2部作の感想を貼っておきます。
『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ』(新房昭之、宮本幸裕) - Devil’s Own −残骸Calling2−
 というわけで初日にいそいそと見てまいりました。結論からいうとすごく面白かった。1分1秒に多くの情報が詰め込まれ、「この先どうなるのか」と絶えず興味を持続させてくれました。強いていえば中盤の会話劇が少ししつこいかなと思った程度で、基本的にはずっと引き込まれて見ることができた。少なくともスッキリした終わり方ではないです。どのくらいスッキリしないかというと、エンドロールが終わって劇場が完全に明るくなるまで誰ひとり席を立つ人がいなかったほど。ハードな世界観をしっかりと継承ながら、各キャラクターに見せ場があり、テレビシリーズの焼き直しではない全く新しい物語を創出している。シリーズのファンは必見といえます。逆にいうと、まったく予備知識のない観客がついていくことは至難の業とおもう。ただし、全12話のテレビシリーズを見返さずとも、劇場版2部作さえ押さえていれば問題ないです。新房監督自身、テレビシリーズはそれじたいが完結していて、今回の劇場版は全2作の続編であると位置付けているようだから。もちろん、テレビシリーズを全話見ていて、劇場版2部作は見ていないという人でも問題なく楽しめます。ビジュアル面の見せ場について先に触れておくと、劇団イヌカレーによる異空間デザインが相変わらずおぞましく、劇場版ならではのスケールを見せてくれる。特に序盤のぬいぐるみを用いたロトスコープアニメが凝っていてよかった。それから中盤、曉美ほむらと巴マミが繰り広げるジョン・ウーばりのガンアクション。おそらく気の遠くなるような作画枚数を使って、『リベリオン』的なガンガタ(そういえばタイトルも叛逆=Rebellionである)が見事に表現されていてる。この2点だけでも劇場で見る価値が十分にあります。
 『まどマギ』は自己完結型のストーリーだ。『2001年宇宙の旅』を思わせる壮大な最終話には、初見時こそ呆然としたが、作品を見返し、考察を深めるうちに緻密に計算された結末だとわかる。物語にちりばめられた伏線が終盤に進むにつれて回収され、独自の摂理に支配された世界がきれいに閉じられていく。完成された物語ゆえに今回の続編に蛇足感がない、ともいいきれない。しかし私は、完結した「秩序」をはみ出して紡ぎだされる物語のいびつさにこそ惹かれる。というより「秩序への反逆」じたいがこの続編のテーマそのものでもある。
 少し内容に踏み込みます。本作は大まかにいって3幕構成となっている。1幕目は鹿目まどか、曉美ほむら、巴マミ美樹さやか佐倉杏子の5人の魔法少女が力を合わせて活躍する世界。彼女たちは魔女でも魔獣でもなく、ナイトメアと呼ばれる敵と戦っているが、その戦いはさほど危険なものではないらしく、どこか遊戯的である。なにしろ「お茶会」と呼ばれるなぞのテーブルゲームでナイトメアを退治するのだ。セーラームーンプリキュアのようにけれん味たっぷりの変身シーンの後、「プエラ・マギ・ホーリークインテット!」という決めせりふまで飛び出す。キュゥべえにいたっては「キュゥ、キュゥ」とポケモンのようにかわいく鳴く始末だ。見ているとこちらが恥ずかしくなってくるほど、徹底的に「魔法少女もの」のクリシェをなぞっていく。宮本幸裕監督なんかは恥ずかしさのあまり「プエラ・マギ・ホーリークインテット!」の掛け声を絵コンテから勝手に消してしまったほどだという。あとで新房監督に叱られてもとに戻したそうだが、消さないのは正解だった。私たちは『まどマギ』が「魔法少女もの」を裏切る物語だと知っている。だから「まっとうな魔法少女もの」としての描写が過剰であればあるほど、違和感と不安が募っていくのだ。テレビシリーズと同じくイメージを逆手に取った見事な作劇である。テレビシリーズでマミを惨殺した魔女が、なぜかふつうに仲間としてそばにいるのも余計に不安感をあおる。
 そんな中ほむらは、世界に違和感を抱き始め、独自に動き始める。無限にループする自閉的な日常からの脱出を試みようとする展開から『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』を 想起する人も多いだろう。前述したほむらとマミの戦闘によってこの問題が顕在化。物語は、この世界を作り上げたのは誰なのかという謎解きへとシフトしていくのだった。これ以降はかなり重要なネタバレを含みます。ここまで読んでみて、見る気になった人は観賞後に読むことをおすすめします。というわけで以下閉じます。
 ほむらがまやかしの世界の正体に気付いてからが第2幕。第1幕の世界は、ほむらがソウルジェムの中に作り上げた理想郷だったわけだが、そもそもまどかがふつうに存在している時点で明らかなのだった。『まどマギ』の最終話以降の世界において、まどかの存在を「覚えている」のはほむらだけなのだから。みんな大好きキュゥべえもついに本領を発揮する。まどかの自己犠牲によって、キュゥべえたちが構築した搾取システムは書き換えられてしまっていたが、彼らは諦めたわけではなかった。キュゥべえの「叛逆」ですね。ほむらのソウルジェムを特殊なシールドで守り、外部からの干渉を遮断することで、ほむらをソウルジェム内で魔女化させることに成功。そこに干渉してきた謎の力(まどか)を観測し、コントロールしようと企てていたのだ。さすがキュゥべえ!狡猾!ほむらは、キュゥべえの計画を阻止するため、閉じた世界で魔女として生きていくことを選ぶ。しかし、まどか側にもキュゥべえを出し抜く計画があった。ほむらを奪還すべく、共闘する魔法少女たちの姿に燃えます。ここでの、さやかと杏子のやりとりにもぐっとくる。かくして少女たちは元の世界(まどかが作り上げた魔獣と戦う世界)に戻り、ほむらはまどかの迎えによって昇天する…かに見えたがここで物語はさらに3幕目へと展開を見せます。
 ほむらは、迎えにきたまどか(「円環の理」と呼ばれている)から、「鹿目まどか」の人間体をふたたび強奪。自らを神(まどか)に対立する悪魔と名乗り、祈りと呪いを超えた究極の行動原理を愛と呼びます。世界を敵に回す壮大なヤンデレ。ここにきて「叛逆の物語」の真の意味が明らかになります。その暴走ぶりにさすがのキュゥべえもどん引き。ここ面白かったですね。キュゥべえ頑張れ!っておもった。おそらく賛否を呼ぶのはこの3幕目だろう。実際、この3幕目を加えたことで、作品は著しくバランスを欠いている。私がはじめに「いびつ」と表現したのもこの点です。脚本の虚淵氏によれば、当初は第2幕までだった物語を「今後も続けられるよう展開に」という監督の要請を受けて、追加したというから、そのいびつさも無理からぬことかもしれない。おそらく第2幕で切っていればそれなりにまとまりのいい作品になっていただろうが、出来のいい同人誌止まりになっていたようにもおもう。理解しがたいほど常軌を逸したほむらの暴走を描くことで、本作が忘れられない作品になったことは間違いない。
 『まどマギ』は複層的な構造を持ちつつも、その根底にあるのは思春期の少女たちをめぐる普遍的なイニシエーションの物語だ。純粋な祈りを動機にキュゥべえと契約した少女たちはやがてイノセンスを喪失し、呪いを背負うことになる。だとしても「希望を願う心は正しい」と信じて、まどかは世界を作り替えた。それはくしくも東日本大震災以降の人間のあり方を示すことにもなった。だが、一方で人間は純粋な希望や正しさだけを抱いて生きていけるほど強くもない。ほむらの行動からは、脆く、醜く、欲深く、だからこそギラギラと輝くような人間の業が見えてくる。私は、キュゥべえの正論やまどかの優しさよりも、今回のほむらの激烈なエゴイズムにこそはげしく共感した。そしてそんなほむらの姿から思い出したのは、意外にも『風立ちぬ』の二郎や菜穂子だった。劇場版の前2作を見返しましたが、確かにほむらは一貫してエゴイスティックなんですよね。まどかを救いたいというその一点のみで生き続け、そのほかの人間に関しては完全に諦めてしまっている。それって純粋だけど、すごく怖くもあるとおもうんです。本来喪失するはずのイノセンスを延命し、純化しつづけた結果、もっと恐ろしい魔物になってしまったというのは、よく考えてみれば当然の帰結といえるのかもしれない。今後、続編が作られるかわかりませんが、そのときはキュゥべえにリベンジしてほしいです。それから一部で話題になっていますが今回の劇場用パンフは装丁も内容もすばらしく、おそらく今年ベストパンフだとおもいます。