Devil's Own

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RadioheadはJASRACを殺すか?−「音楽の価値」の相対性について

 先日も書いたように、レディオヘッドの新作の値段はリスナーが決めることができる。ダウンロード料金に1ポンドも払っていない僕が、偉そうなことも言えないのだが、果たして蓋を開けてみると沢山の人がレディオヘッドの音楽にしっかり投資をしていた。

approximately 1.2 million people downloaded the album from the site, and that the average price paid per album was $8 (we heard that number too, but also heard that a later, more accurate average was $5, which would result in $6 million in revenue instead).

 120万人の人間が、平均5ドルで結果として600万ドルの収益、とある。やはりレディオヘッドは正しいことをしていたのだ。レコード会社やクリアランス管理団体が、いちいち宣伝や価格設定をしなくたって、人々はよい音楽にお金を払い、アーティストはそれを享受できるのである。音楽を保護するなどと言いながら、その実音楽を食い物にしているJAS○ACのような団体の存在意義が崩壊した瞬間だったかもしれない。レディオヘッドの試みは、それ自体がシーンにおけるエポックメイキングであり、「音楽の価値」について考えさせられるひとつのきっかけとなった。
「音楽の価値」といえば最近友人と電話でこんな会話をした。

 友人『iPod買ってから、「あーあの曲聞きたいけど、家に帰らないと聞けないなー」という感じがなくなった気がするんよね』
 6『でも、あの曲聞きたいってときにすぐその曲聞けるのってiPodの最大のメリットじゃないのかい?』
 友人『そうかなぁ・・・・』

 これは結構難しい問題で、聴きたい時に聴けてしまうという利便性はある意味でその音楽の価値を貶めることになったのではないか、と彼は思ったのかも知れない。
 彼の意見は音楽の視聴形態における単純な懐古主義以上の問題を孕んでいる気がする。
 道端を歩いてある曲が聴きたくなったとする。でもCDプレイヤーには全然違うディスクが入っていて残念な気持ちになる。そうすると聴けなかった曲がなんだかとても大事なもののように思えてくる。家に帰って、聴きたかった曲を聴くととても満たされた気分になり、ますますその曲が好きになる。そんなストーリーも納得できる。確かにiPodを持つようになって、音楽を大事にしなくなったという気がしなくもない。電車に乗って本を読みながら聴いているといつのまにかアルバム1枚終わってしまっているなんてことがよくある。そういうとき、音楽に対してなんだか申し訳ない気持ちがしなくもない。音楽は自分にとって周囲の喧騒をカットする役割を行ったに過ぎないのではないのか。
 アナログレコードは、針で表面を削って音を出す。だから、CDやmp3と違って1回目も2回目も同じ音が聴けるわけではない。そのときのレコードで奏でられる音楽にはとても価値があるように思える。僕の部屋にある安物のターンテーブルは、演奏時間が終わってもレコードが回り続けるので、針は一番内側の溝をなぞっている。その間針が磨耗するのはイヤなので、すぐに止めるか裏返すかしなくてはならない。レコードの片面は普通30分未満なので、その度にターンテーブルをいじることになるわけだから、レコードというのは何か作業しながら聴くにはつくづく向かない媒体だなと思うが、そのため普段より熱心に音楽を聴いている気もする。そう思うと、昔の人たちにとって「音楽を聴く行為」は難儀なものであっただろうなと思う。レコード屋に出かけ、欲しいモノを選ぶ。試聴も今よりずっと億劫だっただろう。そうして、買ったレコードをターンテーブルに載せて聴く、数分して裏返してまた聴く。レコードが随分気に入り、何度でも聴きたくなるが、そうするとすぐに擦り切れてしまうので、今日はこのくらいにしておこう。次の日、学校へ行く途中そのレコードのことを思い出し、また聴きたくなる。だけど、勿論聴くことはできない。帰ってから、急いで針を落とす。いい気分になって、その日は特別に2回聴くことにする。僕ならその間何か別のことはしないだろう、と思う。
 そんな音楽生活からすれば、ワンクリックで即刻ダウンロードあとはiPodに入れておけばいつだってどこだって何度だって聞ける現状はお手軽なものだ。こういう文脈で語れば、やはりmp3やポータブルプレイヤーといった文明の利器は、「僕ら」と「音楽」の付き合いにおいて、そんなにいいものであるとも思えない。
 だが、僕としてはそこに同調できない部分も大いにある。文明の利器は「音楽の価値」の相対性に対応できるツールであるという大きなメリットも持っている。どちらがいいというのではない。iPodの利便性は、「音楽の価値」を貶めるものではないということにはならない。
 iPodはそもそも、その大きな容量にプールできる充実したコンテンツが魅力であって、それを最大限に利用しないのはなんだか贅沢すぎる悩みではないか。僕は、半年以上もiPodなしで生活していても特に苦痛を感じなかったが、街を歩いていて聴きたいと思った曲を、家に帰って聴いてもあまりしっくり来なかった。僕が彼の意見に同調できなかったのは、音楽の価値の相対性に因るものだ。「音楽の価値」は、時や場所で変わってくる一過性のものだ。先ほどのストーリーで説明しよう。道を歩いていて聴けなかった曲、家に帰って聴くが、するとあんなに聴きたかったのに、そのときのフィーリングはもうどこかに行ってしまっていて、なんだかちぐはぐな気分になる。そんな場合のほうが実は多いような気がする。いずれにしてもこの話は、また直接したいですねっ!!
 「音楽の価値」の相対性は、レディオヘッドの試みにも反映される大事な考え方だと思う。そもそも音楽が株券のような形で流通しているのがおかしなことなのだ、そう語っていたのはトム・ヨークだったか、或いはスーパー・ファーリー・アニマルズのグリフだったか、ちょっとよく思い出せないが、中学生の頃僕はこの言葉にとても感動した覚えがある。音楽は元々、僕らの生活に当たり前のように存在している空気のようなもので、そんなものに金銭価値を求めるなどおかしなことではないか。株券のような音楽などなくても生きていける。*1
  僕らはCDを買うとき、その音楽やアーティストに対する投資のつもりでお金を払っているが、実際にそのお金で潤っているのはアーティストとは関係ない全く別の団体であったりする。それを認識している人々は以外に少ないのだが、例えば外国のCDが輸入盤と日本盤で値段が違うのを不思議に思った人もいるだろう。日本の音楽は高すぎる。 繰り返し言う事になるが、音楽の価値というものは元々相対的なものである。サム41とサム・クックのレコードは同じ値段で売られているが、僕にとって前者より後者の方が何億倍も価値がある。勿論、逆の人だっているだろう。実際に市場で売り出すわけだから絶対的な価値設定が必要なのは納得できる。でもそれは、やはり商品の価値であり、モノの価値であり、音楽の価値はやはり聴き手である僕らの完全に依存している。第一、絶対的な値段設定とやらも怪しいもので、中国ではCDアルバムは600円前後で売られていたし、国内でも過去の名盤がセール対象商品などと称して廉価で売られていたりする。時と場所によって値段すら変わっているのだ。だったらその価値判断が聴き手に委ねられるべきなのは当たり前のことだ。
 以上の論を総括しても、レディオヘッドの試みがどうしようもなく正しい。ダウンロードだけではなく、ディスクボックスでも販売しているのだ。mp3にはmp3のアナログレコードの音楽にはアナログレコードの価値があるのだ。となるとモノと情報の間でどっちつかずのCDというメディアの存在意義が怪しくなってしまう。この先全ての音楽のリリース形態がダウンロード形式のみになるとすれば、僕はもうCDを買わなくなるだろうが、アナログレコードは買うと思う。
 とこんな雑感を書いたが、実はこの文章レディオヘッドの新作の内容そのものには全く持って触れていない。実を言えば、リリース形式のエポックメイクなど、彼らの音楽にとってはどうでもいいことなのだ。いや、そういった付加情報がどうでもいいモノからこそ、彼らの音楽はこのような形でリリースされたと言った方がいい。とりあえず、新作は昨年リリースされたトム・ヨークのソロ作品「ジ・イレイサー」での流れを汲みつつ、5人にしか出せないアンサンブルを持った大傑作だと思う。ネット上の評判は芳しくないし、僕も一聴したときは手放しで褒めることのできない違和感を覚えた。だけど、そういう違和感は、6年前「KID A」を初めて聴いたときの感覚や、アートワークが暗示するゴダール気狂いピエロ」を初めて見たときの感覚とよく似ている。
 つまり感動だ。

*1:音楽がなくても生きていけるぜ、というのは、「No Music No Life」とか「音楽がなくちゃ生きていけない」とか言ってる輩に対しての偽悪的なステートメントだ。音楽がないと生きていけないのではなく、生きていることが音楽であるのではないか。とかなんとか言ってみる。