Devil's Own

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NHK人形劇「パンをふんだ娘」―幼い日に見た「堕靡泥の星」


 先日23歳になった。イアン・カーティスが自殺した年であり、僕の母親が僕を産んだ年である。ヘロインを食いすぎたリバー・フェニックスがくたばったのも確か23歳だった。もうこの年にもなると誕生日なんて特別でもなくなってしまうが、色々と子どものころのことは考える。ラチョフの絵本「てぶくろ」とかみんなのうた大貫妙子が歌っていた「メトロポリタン美術館」とか、小さい頃好きだったものを思い出したりする。別に感傷に走るわけではないが、少年時代の感性に対する崇拝というかある種のオブセッションがあるように思う。子どもの頃は、今よりずっと楽しかったし、今よりずっと怖がりだったわけだから。
 皆さんは「パンをふんだ娘」という童話をご存知だろうか。NHK教育のこども枠で放映されたアンデルセンによる童話だ。生まれながら高慢で残忍な性格を持つ少女インゲルが、水溜りでドレスを汚すことを嫌がり、持っていたパンを踏み石代わりにしようとする。しかし、パンを踏みつけた途端、インゲルは水溜りの中へ引きずり込まれそのまま地獄へ落ちてしまう、という話だ。劇団かかし座*1による影絵人形劇と山口美也子が歌う陰惨な主題歌も絶大な効果を上げていて、多分見たことがある人も多いと思う。インゲルが水溜りへと沈んでいくシーンは今見ても陰鬱で恐ろしい。睫毛などの細部に至るまで丁寧に制作された影絵のシャープさ、それとは対照的なブラー処理を施した極彩色によって表現された背景が織り成すイメージは出色の出来だ。ドS女が堕ちていくときほど美しいものはないからね!「神様に背いたインゲル 地獄に堕ちる」という冷酷な歌詞もあいまって、鮮烈な印象を残す。「パンをふんだ娘」と聞いて多くの人がこの場面を思い出すに違いない。
 僕もご多分にもれず、この作品をトラウマとして記憶している人間のひとりだ。とにかくその衝撃と異物感は忘れがたい。僕は割りと幼い段階から、あの説教くさいイソップに慣れ親しんでいたから、多くの童話に含まれている寓話性へのリテラシーはあった。この物語から「食べ物を粗末にしてはいけない」、「小さい生き物だとしても命をもてあそんではいけない」などという「教訓」を読み取ることもできた。しかし、他の童話とは決定的に違うとも思っていた。それは主人公インゲルが御伽噺の主人公としてはあまりに悪辣なキャラクターであり、そんなインゲルに課せられる「罰」もまたあまりに苛烈だという点である。童話元来の陰惨さや不条理さについては、坂口安吾をはじめ多くの人物が指摘しているが、通常子どもたちに読み聴かせるに際して、そういったネガティブな要素は省略・歪曲され、話が「綺麗事」へとデフォルメされる。中でも「死」は真っ先に隠蔽されるべき概念であり、最も初歩的な童話絵本ではどんな悪者であっても登場人物が死ぬということは少ない。そんな「綺麗事」に慣れきった僕にとって「パンをふんだ娘」の物語がどんなに過酷で異彩を放っていたことか。インゲルが受ける「罰」=「底なし沼へと沈んでいく恐怖」は「死」を連想させると同時にもっと恐ろしい「孤独」や「絶望」といった、おおよそ普通の子どもには耐久性のないコンセプトまでも容赦なく投げかけてくるのだから。かくして「パンをふんだむすめ」は印象的な影絵と劇中歌、そして何よりも陰惨で恐ろしい「異色作」として僕の心に長らく刻み付けられていた。
 そいういうわけで今年の誕生日に記憶の中からサルベージしたのは「パンをふんだ娘」だった。さすがに現代とあって探してみると難なく見つかったのだが、数年ぶりに見返してみて驚いた。この作品、実は前後編に分かれており、僕が覚えているのは前半部のみだったのだ。前半部はインゲルが沼に沈む先の場面で終わっており、それが物語の結末だと思っていた僕は「パンを踏んだ娘」を名作童話には珍しい本当のバッドエンド、つまり「救いようのない物語」だと認識していたのである。しかしこの物語にはつづきがあった。地獄に堕ちた後も反省するそぶりを見せず神すらも呪うインゲルだったが、ある日自分に同情する純朴で病弱な少女の魂に触れる。少女の自己犠牲に感化されたインゲルは、やがて改心し自らの罪を償うようになるのだ。つまち後半では自らの罪に対するインゲルの「清算」が描かれており、結末にはしっかり「救い」そして「希望」が用意されているのだ。僕は文字通り話半分しか理解できていなかったということになる。後編を見ていないというわけではない。魔女によって石のように固められた人々のくだりなど、後半部で記憶している場面もある。恐らく僕は後編も見ているはずなのだ。だのに、肝心のインゲルの改心と贖罪のプロセスはすっぽりと記憶から抜け落ちている。インゲルが沼へ沈んでいくシーンがあまりに強烈過ぎたからかもしれない。長い間僕にとって「異色作」として認識されていた「パンをふんだ娘」は、何のことはない後半部でしっかりと「救いのある話」というマジョリティーに回収されていたのだ。
 僕はてっきりインゲルは未来永劫底なしの沼の中へ沈んでいくという恐怖の責苦を味わっているのだと思っていた。今こうしている間もインゲルは沈み続けているのかもしれない。そう思うと眠れなくなることもあった。だけど、実のところ沼には底があったし、インゲルは最終的に外に出ていたのだ。僕の十数年越しの後味の悪さは何だったんだ!インゲルを心配した十数年を返せ!という感じである。
 しかし、不思議なことにこのインゲルにとっての「救い」が描かれる後半を見たからといって、僕のこころが落ち着いたわけではない。言うまでもなく「パンをふんだ娘」のトラウマになってしまうくらいのバッドテイストが、この上なく魅力的な物語として印象付けていたからだ。正直に言うと、後半は全部いらないとすら思う。現実を知るにつれて、イソップの説教くさささよりもインゲルのサディズムのほうが魅力的だと感じるようになったのかもしれない。生まれながら持ち合わせたインゲルの嗜虐性は、もはやニヒリズムすら超越している。インゲルは神様の存在を信じていないのではなく、神様の存在を知りつつも敢えて嫌っているのだから、そのアティチュードは明確だ。沼の底で、神に対して呪詛の言葉を吐き捨てるインゲルのカッコよさといったらない。それに比べて終盤における「改心」と「贖罪」のプロセスはどうだろう。取ってつけた感が満載な上にいかにも凡庸なキリスト教的ドグマが垣間見えはしないか。
 皆さんは「パンをふんだ娘」の物語、ちゃんと正確に覚えていただろうか?結末についての是非は自分の目で確かめて欲しいと思うが、かかし座による影絵劇はローテク時代ならではのアイデアに満ちており、今見ても感嘆せずにはおれない。

「パンをふんだ娘(1)」Part1

「パンをふんだ娘(1)」Part2

「パンをふんだ娘(2)」Part1

「パンをふんだ娘(2)」Part2

*1:影絵劇に特化した劇団。「パンを踏んだ娘」のほかにも、「3匹のこぶた」などNHKでいくつかの童話を制作している。最近ではコブクロ「蕾」のPVなども有名。