Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

松本人志『大日本人』を肯定する

 
 以下は今年5月に文学フリマにて出展した同人誌「秘密結社ソドム」に寄稿した文章をカット、訂正したもの。*1先日、PCをリカバリした際にデータが無くなってしまい、紙媒体しか残っていないので自分用アーカイブとして再度文字に起こした。ついでに上げておく。「ダークナイト」について考えるとき少し有用で歩きがしたので。

大日本人』最高だよ!

 2007年、劇場公開された松本人志の第一回監督作『大日本人』。この作品に対して、既に見た方はどんな感想を持っているだろうか。未見の方は作品に対してどのようなイメージを持っているだろうか。肯定的・否定的いずれの意見を持っているにせよ、『大日本人』が2007年の日本映画において最大級のトピックスであることは認めざるを得ないだろう。今もって、人気絶頂にあるカリスマお笑い芸人松本人志、彼の初監督作品は、奇しくも公開時期が重なった北野武の監督13作目「監督・ばんざい!」との対立構図を煽り立てられる形で、多くの人々の話題に上った。北野武の功績と言うべきか、「優れたコメディアン」が「優れた映像作家」の資質を持つという定式は一般人にはなんら違和感なく受け入れられている。度々北野の存在に言及されることに松本自身は辟易していたようだが、公開に至るまで松本はかつてないほど多くのテレビ出演や雑誌取材に応じ、作品のプロモーションに奔走した。大々的な宣伝活動の皮切りとなった製作発表記者会見で、松本は「誰も見たことない、どの映画にも似ていない映画になる」という宣言をしている。カンヌ映画祭にも出品され、多くの人々が「大日本人」に注目した。「お笑い芸人」としての松本人志を応援してきたファンからは勿論、それまで松本人志の存在に注目していなかった人々からも期待されることになり、それが初日二日の好成績(興行収入二億円超過、動員数十五万人)に結びついたといえるだろう。一概に「期待」と言っても、『大日本人』を見るために劇場へ足を運んだ人々の「期待」の種類は様々であったに違いない。ある人はテレビで慣れ親しんだ松本特有の乾いたユーモアを期待し、ある人は松本が宣言した「誰も見たことない映画」の可能性に期待したかもしれない。そして実際、そうした期待に呼応するように『大日本人』に対する評価は多様化することになった。文字通りの賛否両論であり、肯定・否定の立場では同種であっても「お笑いとしては〜」「映画としては〜」といった具合にそのスキーマによっても見解が異なっている場合が多く、意見は更に錯綜している。ネットで少し調べてみれば、この作品に対する一筋縄ではいかない評価状況はすぐに把握できる。それだけの話題作であったといえばそれまでだが、こと映画批評の世界ではどうかといえば評価は惨憺たるものだったと言えるかもしれない。とある映画雑誌では「大日本人」は見事その年のワースト1位に輝いている。「それなりの話題作ではあったが、映画としては途方も無い駄作」という見解が一般的なように思えるがどうだろう。
  筆者の『大日本人』に対する評価はというと、好きな映画である。ここでは敢えて肯定する、と言わせてもらおう。映画の好き嫌いなど観た人がその時々で決めればいいのだが、僕自身は自分の好きな作品が世間で評価されていなかったりすると割りと寂しく思う典型的集団依存人間なので、「大日本人」の低評価ぶりには釈然としないものがある。だが一方でこの作品を「駄作」とする意見にも頷けるのだ。なぜかと言えば、『大日本人』を初めて観たときの僕の評価もまさしく「駄作」だったのだ。しかし、後に言及するこの作品が持つ特殊な構造を分かった上で再度見返したとき、作品に対する印象は大きく変わった。「お笑い芸人」としての松本がアリバイ的に散りばめたキャッチーな笑い(無論、松本は映画制作においても「笑い」の要素を最優先している。ここでのアリバイとは映画に対して出資してくれている会社やテレビバラエティの松本に期待している一般の人々へのサービス精神といったニュアンスのものだ。)が削ぎ落とされ、戦慄するような恐怖へと取って代わったのである。恐怖と笑いは表裏一体の双生児であることが多いが、この作品における「笑い」こそがそのような事例の典型であったように感じる。この映画は繰り返し見ることで、観るものの心を大きく揺さぶる種類のものであり、今日もお茶の間に垂れ流されている一過性のテレビコンテンツ、ある意味ではテレビコンテンツとなんら変わりない凡百の日本映画とは一線を画している。
 この映画に対する否定的見解は様々だ。その見解の全てに反証することは当然出来ない。究極的にはやはり作品の評価は個人の感覚に委ねられてしまうからだ。しかし、本作は語ることを誘惑する、語らずにはおれない謎と魅力に充ちている。それは先にも述べた初見と再見の印象の相違でもあるし、「コメディー映画」「ヒーロー映画」あるいは「戦争映画」とも形容できるこの映画の多面性であるとも言える。だから僕はここで敢えて『大日本人』を強く肯定するという立場をとりつつ、この映画についていくつかの点から論じていきたい。
 内容分析に入る前に、ここで『大日本人』で描かれる基本的な世界観とストーリーについてレジュメしておこう。松本人志監督本人が演じる大佐藤大(だいさとうまさる)は、一見平凡な中流所得層の日本人。妻子とは別居し、野良猫と戯れることで孤独を紛らわしながら寂れた一軒家で独り暮らししている。しかし彼には「大日本人」という先祖代々続く特異な家業があった。高圧電流をかける(劇中では「焼く」と称される)ことによって身体が巨大化する(劇中では「化ける」)という遺伝体質を持つ彼は、日本各地に度々出現する「獣」と呼ばれる奇怪な巨大生物を退治するという使命を帯びていた。かつては人々から感謝と尊敬の念を集め栄華を極めた「大日本人」稼業だが、自衛隊が発足し軍備が整った現在においては減退の一途を辿り、大佐藤は大日本人不要とする世間の厳しい誹謗中傷に晒されながらも、日本で唯一の大日本人として戦っている。
 映画の大半が、大佐藤大の日常に密着するドキュメンタリーという体裁で進行している。手持ちカメラで大佐藤の生活を記録し、インタビューアーの質問に大佐藤が時折答えるというフェイクドキュメンタリーである。しかし全編をそうした偽のリアリティーで押し切っているというわけではなく、大佐藤が実際に巨大化し、獣と戦闘するシーンなどは通常の劇映画のようなカメラワークやカット割りが適用されている。戦闘シーン以外でも、おおよそドキュメンタリーとしての手法とはかけ離れた撮影方法が垣間見える。大佐藤が施設にあずけている祖父の「四代目」を訪ねる場面において、桜並木の合間を歩く大佐藤を俯瞰ショット気味に捉えながらクレーン移動によってゆっくりとカメラが下降して行き、地面に到着した途端にハンディ撮影へ移行するシーンなどは顕著な例だ。このように劇映画とフェイクドキュメンタリーという二つの映画文法を逡巡している。

世間との闘争としての<自作自演>

 ここで問題にしたいのは、『大日本人』は果たして松本の言う通り「どの映画にも似ていない」のであろうかという点である。この発言の意図を汲み取るに、松本が終盤10分のことを指しているのは明らかだ。後に言及するが、『大日本人』は終盤ある時点から大きな変容を遂げる。「どんでん返し」とも呼べるその仕掛けに初見の観客の誰もが唖然とさせられるだろう。一方でそれ以前の箇所はと言えば、フェイクドキュメンタリーと劇映画という二つの映画文法を行き来するという点において特異ではあるが、「どの映画にも似ていない」というほどの奇想天外なものでもない。つまり「どんでん返し」以前については、既存の映画と同じように分析することが出来るだろう。
  第一に『大日本人』は、監督自ら主演を兼ねる自作自演の映画だと言える。北野武を想起せずとも映画史において自作自演は繰り返し行われてきたさして珍しくも無い形である。演出面においてもコストパフォーマンスにおいても一見素人監督にとってアプローチしやすい方法である一方、こうしたやり方で映画を作ることによるデメリットも勿論存在していて、主体(=監督)である自分と客体(=主演)である自分のパースペクティヴに失敗し、監督の独りよがりなオナニズムへと堕してしまう可能性を孕んでいる。自分を自分で描くこと―そこには必ず自意識が発動する。
 松本はというと、製作発表の時点で自らを主演に置くことにあまり乗り気でなかったことを語っている。そうしたことは幾多のテレビバラエティーを通して実践してきたことだからだろう。テレビという場で形成された「松本人志」のイメージは一種の権威と化している。彼の言動ひとつひとつが共演者にとっても視聴者にとっても面白く、ほぼ条件反射的に爆笑している状況や「松本人志」という存在ありきで成立している笑いも少なくない。「松本人志」という存在そのものが、一種の自明性を有しており、それを意図的に崩壊させることで十分笑いを取ることが出来るのだ。世の中で「当たり前」のこととして定着し、権威付けられているイメージを意図的に崩壊させることによって「笑い」に転化する方法論事態は松本が繰り返し行ってきたものである。いまや「松本人志」自体が権威と化しているので、わざわざメタ化する素材を引き出さなくても松本本人が少しでも想定外の身振りをとれば十分笑いとして通用しうる。事実、劇場で『大日本人』を観たとき、大佐藤=松本人志が登場するファーストカットで隣に座っていたカップルがけらけら笑っていた。坊主頭にスーツ姿という一般的な「松本人志」像が、映画の中での扮装を施しただけで笑いが起こってしまう自明性に注目したい。この手法を利用すれば、松本が映画の中で観客の笑いをとることなど造作も無いことだろう。主演を兼任することを要求した製作側としても、『大日本人』はこのような「松本人志」像をフィルムに焼き付けたもので十分だったはずだし、そのほうが当然喜ばれる。しかし、主演を兼ねることに消極的だった松本本人にしてみれば、テレビを通して権威化した「松本人志」像に映画の中の自分大佐藤大が回収される予定調和は、何としても回避したかったに違いない。
  監督第一作「その男、凶暴につき」において、禁欲的に抑制された演技と無表情によってテレビにおける「ビートたけし」像を徹底的に押し殺した北野に対し、松本はフェイクドキュメンタリーという形式を採用することで自らを客体化しようと試みる。その主要なギミックとして用いられているのは、大佐藤の生活に密着し、時折質問を投げかける<主体>としてのインタビュアーの存在だ。劇中で描かれる寂寥感を湛えた大佐藤の日常生活は、テレビの中で後輩芸人に囲まれ祭り上げられている「松本人志」とは真逆の状況ではあるが、自己を滅却するには至っていない。むしろテレビ的な「松本人志」との落差を執拗に描くことでユーモアに転化しようとする手つきに自己像への明らかな甘えを見て取ることができるかもしれない。『ごっつええ感じ』後期の代表的なコント『トカゲのおっさん』(松本人志扮する胴体がトカゲの中年男が、「人間のように普通に生活したい」という本人の願望とは裏腹に、行く先々で周囲の人々に蔑まれ搾取される悲壮なコント劇)などに見られるように、「虐げられる自己」を演出して笑いをとることは松本の常套手段である。過激な罰ゲームを次々と考案し、それに身を投じる松本人志はほとんどマゾヒズムに近いストイックさで自己を「虐げる」こととそのことによって笑いをとることに執着している。テレビを通した自らの「公開処刑」に対する偏執には本人も意識的だ。単行本「一人ごっつ」の中のインタビューでは、過激な罰ゲームを思いついたとき、「イヤだなぁ」と思う一方で、一歩引いた場所から苦しむ自分を客観し、冷静な興味を持っているというアンビヴァレントな心理を明らかにしている。『大日本人』の劇中で不必要なほど悲惨さばかりが強調される大佐藤大の日常は、松本のそうした公開処刑への嗜好性に起因するものかも知れない。注目すべき点は、テレビでの松本を知らない視聴者にしてみれば、大佐藤を取り巻くこうした状況は最初から笑えないことであり、テレビでの松本に慣れ親しんだものにとってもだんだん笑えなくなるくらいに悲惨さは色濃くなっていくところである。そしてこの悲惨さの原因は大佐藤と世間の間にあるコミュニケーションの断絶にある。度重なるアクシデントにより大衆からの不信感が募る中、ひとり自身の信念を貫きながら黙々と「大日本人」としての任務に向き合う大佐藤。大佐藤の戦闘シーンの後には街頭インタビューのような形で彼に対する幾多のバッシングがインサートされている。大日本人に変身する際、物々しい儀式が執り行われる場面が描かれているが、儀式に立ち会う警備員や神官の誰もがそれを重要なものだとは考えていない。インタビュアーが「今のもう一度やってもらっていいですか?」と不遜にも儀式を中断し、それに応じて儀式を反復する神官と当惑する大佐藤の表情が儀式の形骸化を浮き彫りにし笑いを誘うが、一方で周囲の人間と大佐藤の温度差を感じずにはいられない。別居中の娘と再会するくだりでも上機嫌な大佐藤とモザイク処理と音声加工によって没個性化された娘との対比を描くことで、両者の間に存在する残酷な断絶を際立たせている。
 こういったコミュニケーションの断絶を最も簡潔な形で示しているのもやはりインタビュアーの存在である。悪意ある質問に対しても誠実な受け答えをする大佐藤に対して、言葉尻を捉えた揚げ足取りに終始しているこのインタビュアーの態度に、最初のほうでは観る者も「意地の悪いツッコミ」程度の認識で見ているが、横柄な言動がエスカレートしていくにつれてその声も「ツッコミ」から「誹謗中傷」へと変質していく。劇中でインタビュアーは常にカメラの「こちら側」に位置し、ついぞ画面内に姿を見せることは無い。そいうった実体のなさが彼の発言の主体性や責任の拠り所を一層曖昧にしている。インタビュアーは不気味で実体の無い世間そのものを象徴しているかのようであり、匿名性を隠れ蓑にしている。その意味で、大佐藤とインタビュアーの対話はアンフェアなものであり、ここでも断絶したコミュニケーションを露呈させてしまっている。このように、劇中の随所で描かれる大佐藤と世間のコミュニケーション不在と相互理解の不可能性は、個人と世間の間にある残酷な断絶を帰納法的に導き出す。自分にとっての「正義」をひたすら実践しようにも、世間からは理解されること無く冷笑される大佐藤の姿に、「面白いこと」を追求しそれを視聴率によって残酷に審判される松本人志へと置き換えることは容易いだろう。こうして初めて、<自作自演>映画としての『大日本人』の性格が浮き彫りになる。フェイクドキュメンタリーと劇映画という文法の間で揺れ動くこの映画は、劇中の大佐藤大松本人志の間を揺れ動く主体性の逡巡であり、残酷で無責任な世間に対するレジスタンスのドキュメントでもある。そうした松本の姿は、テレビでの自己像を押し殺し没個性へと身を投じた北野武のアティチュードと同質の覚悟に充ちており、テレビでの自己像を引き摺ることによって彼はむしろ残酷で卑怯な世間との対話という途方もない闘いを引き受けたのである。

虐げられるヒーローとショウビズ化する戦争

 自己言及的な<自作自演>映画である一方で『大日本人』はヒーロー映画でもある。大日本人として巨大化する大佐藤大は、往年のヒーローと同じく「変身」し、奇奇怪怪な形状と性質を持つ獣と戦闘する。しかし、大佐藤の姿にはいかなる意味でもヒロイックさを見出すことは出来ない。パンツ一丁のいでたちで体中に「スポンサー」のロゴマークが貼り付けられる情けないルックス。時折挿入される街頭インタビューからもこのヒーローが必要とされていないことがわかるし、大佐藤は大衆に愛されるどころか自宅の窓を割られるわ、塀に罵詈雑言を書き散らされるわ、常に謂われない迫害に晒されている。初監督作品の主人公として、また自ら演じるキャラクターとして、松本が選び取ったのは誰からも必要とされず迫害されるヒーローであった。しかしながら、元来無敵で輝かしいものであるはずのヒーロー像を崩壊させることで笑いに転化する手法自体は松本のコントで繰り返し上演されてきたテーマでもある。いじめられっ子で弱虫の浜田少年(浜田雅功)を助けにやって来るも不毛なアイテムばかりを提供しちっとも役に立たない『AHO AHO MAN』や、ちぐはぐな格好で登場して悪役(これも浜田雅功)に説教をされる『世紀末戦隊ゴレンジャイ』はこうした系譜の代表格として挙げる事が出来る。ヒーローという肩書きに内実が全く伴わないこれらのキャラクターには、勧善懲悪のヒーロー観に対する松本の猜疑心があり、松本の場合このような勧善懲悪のヒーロー像は「世界警察アメリカ」という存在に置換できる。序盤の公園でのインタビューシーンで「反米意識」という言葉が垣間見える他、大佐藤の言動は時折保守思想の色合いを帯びることがあるし、「どんでん返し」以降のパートでは露骨なアメリカへのカリカチュアが見られ、松本とって揶揄すべきヒーロー像がアメリカに依拠するものであることは明らかだ。勿論、勧善懲悪のヒーロー観をそのままアメリカ的な価値観と結びつけることは安直だろう。多くのアメリカのヒーロー映画はそうした定式から逸脱するものだし、そのロジックで最もアメリカンなヒーローは「水戸黄門」だということになってしまう。だから本論では、そういったヒーロー像をアメリカという具体名詞に結びつけることには賛同せずにおきつつも、大日本人がそうしたヒーローの自明性を失墜させることを意図したキャラクターであることは確認しておきたい。素人を起用したと思しき警備員が、インタビュアーに「正義とは何か?」という質問を受ける場面がある。警備員は返答に窮するが、「みんな自分がやっていることが正義だと思っている」というようなことを述べている。これは松本にとっての正義の相対性を簡潔に示すものであるし、そのことを述べるにしても優柔不断な態度をとらざるを得ない警備員の身振りに松本の「正義」という概念そのものへの懐疑的な姿勢をみることができる。そして松本にとって揶揄の対象であるヒーローは、松本によって演じられることで二重の意味での<権威の失墜/自明性の崩壊>を実現している。大佐藤大は松本のヒーロー懐疑に加えて、先述した自己嗜虐への欲求をない交ぜにしており、松本人志の笑いという意味においては鉄板キャラクターであるといえるだろう。そしてそうしたキャラクターを虐げるものとして選ばれるのは勿論、先述したように無責任で匿名的な世間に他ならない。
  大佐藤大と世間の闘争は、大佐藤の「大日本人だよ!」という台詞を機にピークを迎える。フェイクドキュメンタリーの終焉に位置するこの台詞は、この映画の予告編やテレビCMでも頻繁に使用されていた実に明快な台詞である。ヒーロー映画でヒーローが自らを名乗る行為自体は別段珍しいことでもないが、『大日本人』における「名乗り」は終盤、とても意外で地味な形で訪れる。度重なる不手際によって大日本人への批判が強まる中、自棄酒を呷る大佐藤はいつもより饒舌に自らの少年時代について語っている。インタビュアーはますます露悪的な態度を強め、最早敬語すら使っていない。不機嫌になった大佐藤は「僕もう帰るからね」と言い残し立ち飲み屋を後にしようとする。「雨降ってるよ」と言うインタビュアーに対し、自慢げに折りたたみ傘を見せる大佐藤。冒頭で、「必要なときに大きくなるから好きだ」と言っていつも持ち歩いていた折り畳み傘がようやく役に立つのである。(折り畳み傘にしか自己投影せざるをへない大佐藤の孤独!)その大佐藤に対して、「今日も持ってきたの?マメだね」とからかうインタビュアーに向けて放たれるのが先の「大日本人だよ!」である。会話の文脈で言えば取るに足らないギャグであるが、ついにカメラの前に姿を見せず匿名性の隠れ蓑を纏い続けていたインタビュアーとの断絶したコミュニケーションを残したまま、大佐藤はこの「名乗り」を最後に責任なき客体に充ちた「世間」の悪意へと呑み込まれていく。この先インタビュアーは映画に登場することがない。
 中村雅俊が歌う「ふれあい」をバックに、帰路につき万年床へとなだれ込む大佐藤。その様子の一部始終は大佐藤自宅に横付けされた中継車でモニタリングされている。ちゃっかりとそこに居座る大佐藤のマネージャー(UA)の姿も見逃せない。迷彩服に身を包んだ特殊部隊と思しき隊員たちが大佐藤宅周辺を暗躍し、変電所にて儀式めいた祈祷を行っていた神官の姿も垣間見える。何も知らずに眠っている大佐藤を他所に何か大きな思惑が蠢いている。迷彩服の隊員たちがついに大佐藤の家に突入する。勝手に電流をかけられ、巨大化させられる大佐藤。同時に、テレビ回線の全てが大日本人自宅前からの緊急生中継へと切り替えられる。何事かと目を覚ます大日本人の視線の先にはさる初戦で惨敗した凶暴な獣・ミドンの姿があった。
 大佐藤の意思とは関係なく、視聴率のために「大日本人対ミドン」のタイトルマッチがプロデュースされる、という何とも空恐ろしい場面である。劇場でこの映画を見たとき、この場面においてもくすくすした笑いがあちこちで洩れていたが、僕はといえば自分の「笑い」のキャパシティーはとっくに越してしまっていて果たしてここは笑えるところなのかと途方に暮れていた。映画を観るに際して笑え笑うなととやかく言う権利は誰にもないが、あまりに状況が悲惨すぎて少なくとも僕にはもう笑えなくなってしまったのだ。冷静に見れば悲しい場面だ。なのにテレビでの松本を見慣れたものにはどうにも笑いが洩れてしまう。松本自身は、この場面で「泣いた」という意見に対してもそうしたことを意図したわけではないと語っており、この映画を作ることにおいてあくまで「笑い」を優先したこと主張している。しかし、だからこそこのような陰惨な場面で笑いが起こることの空恐ろしさに対してだれよりもクレバーに意識していたとは言えないだろうか。
 赤い体色と凶悪な風貌を持つ怪獣ミドン、その予測不能で好戦的な性格と外見に北朝鮮というシニフィアンを見つけることは容易だろう。大日本人が惨敗を喫したこの強敵との戦いが珍しく高視聴率を獲得したことは劇中で何度か述べられていた。街頭インタビューでは「やられる?というかやってるのを観てた」と笑いながら話す若い女性が映され、インタビュアーに至っては「またで出ないっすかね」とまで言っている。大佐藤の身を案じるものは誰一人登場しない。自らの意思とは関係なく強制的にミドンとの闘いへと追い詰められる大日本人の状況は、視聴率批判も当然含まれているだろうが、ここで松本が表現しようとしたものはもっと禍々しく醜悪なものであるように思える。即ち、ショウビズ化する戦争への疑問符である。それは「戦争」でさえもエンターテインメントとして消費する世間への疑問符と言い換えることが出来るかもしれない。ショウビズとしての成立には視聴者と情報発信者の存在が必要だ。残酷な視聴者を代弁する存在として姿を見せないインタビュアーがいることは先ほど述べたが、狂言回しを行うメディア側を象徴するものとして登場しているのがUA演じる大日本人のマネージャーである。
 低収入で惨めな生活を送る大日本人とは対照的に、マネージャーはかなりの所得を得ていることが描写されている。五百万の新車を乗り回し、二匹の愛犬を引きつれいつも豪勢で派手な服装に身を包むマネージャー。収入の源である大日本人に対しても横柄な態度をとり、本来的な目的である獣退治よりもスポンサーに対するイメージアップと視聴率を優先させるという状態で、そのキャラクター造形は少々露骨とは言え徹底している。実際に戦闘に身を投じ傷を負う大日本人と、それを上演することによって金を儲けているマネージャー。この搾取構造が、今日の戦争のショウビズを暗喩するものであることは明らかだ。ショウビズ化し無責任な消費と批判に晒される「戦争」。そこで戦っている人間の痛みに対しては誰も気に留めることがない。インタビュアー、マネージャーの存在は、そうした無責任で残酷な世間の構造を明快に体現している。そしてこのマネージャーもインタビュアーと同じく、ミドンとの最終決戦にチャンネルが切り替わると同時に映画から退場する。インタビュアーとマネージャーがリプレゼントしていた世間の残酷さ、無責任さ、その体質は大日本人の巨大化を機に、実はこっそりと我々観客に委託されていたのである。

反転する「実写」と「仮想」

 先述したように『大日本人』は、終盤に仕掛けられた「どんでん返し」によって「誰も観たことない映画」へと変幻する。ここから先はその「どんでん返し」によって生じる様々な効果について論じていくことになるが、そうした場合未見の人々にとってはとても重要な種明かしをすることが不可避である。ここで、本文以下の文章が『大日本人』という映画の重要なネタバレになっていることをまずは断っておきたい。
 され、キッチュで滑稽味を帯びていたこれまでの「獣」とは明らかに異質の野蛮さを持つ謎の怪獣ミドン。初戦では大日本人の敵前逃亡という形で終結した両者の対決は、ほぼ強制的な形で視聴率を取るためのコンテンツとして上演されている。町中を逃げ回る大日本人、危機一髪の刹那、映像がぷつりと途絶えけたたましいブザー音と共に「ここからは実写でご覧ください」というクレジットが画面いっぱいに表示される。ここへきて、観客は唐突にフィクションの世界から現実へと引き戻されるのである。そしてクレジットが終了したとき、映画の世界観は一変する。舞台は、それまでの合成技術とCGによって表現された世界とは全く異なった、お粗末なミニチュアセット。ドラゴンクエストの陽気で軽快なファンファーレに乗って、ウルトラマンを髣髴とさせる巨大ヒーローが紹介字幕と共に姿を現す。「アメリカンヒーロー スーパージャスティス!」「スーパージャスティスの父!」「母・ステイウィズミー!」「思春期の妹・ドンタッチミー!」「赤ん坊のビーマイベイビー!」。アメリカンヒーローという肩書きどおり、星条旗をモチーフにしたと思しき赤と青のストライプによってカラーリングされたスーパージャスティスファミリーは、あまりに露骨な世界警察アメリカのメタファーであるが、初見の観客はそのあまりの展開の唐突さに唖然とするばかりだ。「実写」への変換に伴い、グロテスクな出で立ちをしていたミドンも単なる着ぐるみ人形と化してしまい、大日本人松本人志が形ばかりの張りぼてをまとった姿へと変化している。これまで劇中で描かれてきたフェイクドキュメンタリー、特撮ドラマ、その全てをメタ視した結果として観客の前に現れたのは、どこか見覚えのある光景。そう、「ごっつええ感じ」を始めとする多くのバラエティー番組で実演されてきたコント用のスタジオセットである。そして、その後このスーパージャスティスとミドン大日本人(というより松本人志)の登場人物を配したコントが延々と上演されたのだ。全ての流れを分断するこの驚異の変節に、僕自身言葉を失った。確かに誰も見たことがなかった、少なくとも映画館では。この「分断」こそが、松本の狙った「誰も見たことのない映画」の最重要ギミックであり、起死回生の大ネタだった。しかしあまりに唐突なこの「分断」は松本の意図とは裏腹に、多くの批判を呼ぶことになる。この手法は、斬新さや独自性とは捉えられず、むしろ松本が得意とするテレビ的なコントへと映画を引き寄せる「逃避」であると看做されたのである。僕自身、松本人志が目指す唯一無二の映画作りとしてこの手法が成功しているとは思えなかったし、「逃避」だと感じた。テレビを通して一般人に定着した自己像を突き放すこと(=フィクションとしての大佐藤を完成させること)を徹底することが出来なくなった結果として、いつものコントへ帰結するしかなかったと感じたのだ。観客も一瞬は呆然として戸惑っていたが、やがて<いつもの>コントであることを認識し、安心して笑っていたのだから。結果として『大日本人』は「映画版ごっつ」というレッテルを貼られ、多くの場合は酷評されることになる。
 しかし、全ての展開を知った後になって、この映画を見返したとき、一連のコントシーンが全く笑えなくなっていることに気がつく。いや、それどころか鳥肌が立つほどに恐ろしいシーンだと感じるのだ。スクリーンの中でアメリカ(スーパージャスティス)、日本(大日本人)、北朝鮮(ミドン)とカリカチュアされたそれぞれの役割を演じる登場人物たち。スーパージャスティス達にリンチされるミドンを離れたところから黙って見つめる大日本人。最後の必殺技とも言える合体光線で、ファミリーが一斉に手を重ね合わせる。一緒に手を重ねることを促され、大日本人も遠慮がちに協力するが、手を離そうが重ねようが光線技の威力にはなんら変化を及ぼしていないことに気がつく。にもかかわらず、参与を促されることの意味を、現実と置き換えて考えたとき薄ら寒さを覚えずにはいられないだろう。木っ端微塵に爆発するミドン。エンドロールでは、大日本人を交えたスーパージャスティスファミリーが、今回の戦いについて反省会を行っている。スーパージャスティス達のアフレコには宮川大輔宮迫博之といった吉本の後輩芸人が参加しているので、この場面もどこかコントめいている。戦いに対する消極性をスーパージャスティスに激しく責め立てられても、何一つ言い返すことの出来ない大日本人大日本人の主体性と意思を無視する形で、不気味で高圧的な「会談」が進む中、映画は幕を閉じる。この場面も再見するとひたすらに怖い。そして、何よりも怖いのはこのような光景が観客の目の前にコントとして上演され、笑うという行為によって消費されているという点である。延々と繰り返されたミドンのリンチ光景は果たして本当に「実写」なのか。むしろCGによって表現されていた場面の法が戦闘がより<リアル>に表現されていなかっただろうか。スーパージャスティスたちの仕打ちが、それまでと同じようにCGによって表現された場合、どんなに残虐でグロテスクな様相を呈していただろうか。コントとしてデフォルメされたときに、僕たちはそれを笑うことが出来る。そして僕らが普段ニュースで目にしている戦争光景の殆どが同じようにデフォルメされたものであるのだ。松本人志はクライマックスにおける描写をコントへと変換することで、実写と仮想を反転させ、ショウビズ化する戦争の現実を裏返しに描き出したのだ。先述したように戦争のショウビズ化についての言及は、大日本人のマネージャーという存在を通して伏線が張られていた。罪深く恐ろしい<上演>という構造を明らかにするために、『大日本人』はどうしても「映画」である必要があった。
 そのためにこの作品を「映画版ごっつ」と表現することは正確ではない。コントによって表現された内容自体はさして斬新でもない。アメリカ、日本、北朝鮮の関係性をわかりやすく図式化した極めて陳腐なアナロジーだ。しかし、この内容を視聴者に見慣れたコントとして上演することによって、ショウビズ化した戦争とそれを笑いながら大勢で観ている(しかも金を払って!)視聴者という呪わしい構造を暴いて見せた松本の試みにはやはりある種の新しさがあったと見るべきだろう。むしろ、これまであらゆる形で戦争に加担してきた映画というメディアの実態をここまで自己言及的に、体現的に表象した映画はなかったかもしれない。その意味で『大日本人』は松本の言うとおり「どの映画にも似ていない」と言えるかも知れない。
 『大日本人』が映画として、多くの課題を残していることは僕も認めざるを得ない。フェイクドキュメンタリーと劇映画の間を往還する手法もある種の目くらましと取れるし、このようなやり方が作品全体のテンポを停滞させてしまったことも事実だ。僕がここまで一生懸命読み解いていった社会風刺やヒーロー論もとても新しいものとは言えず、むしろ手垢がついたものですらある。
 しかし一方で、『大日本人』は語ることを誘惑する。面白い映画とは、その映画を観るときのみならず、その映画について語るときも大きな幸福をもたらすものだと僕は思っている。その意味でも、『大日本人』はテレビによって侵食され混迷する日本映画において圧倒的に面白く挑戦的な試みだ。松本人志は、監督第二作に対して概ね意欲的だという。この作品を肯定する一方で、次回作が『大日本人』を真っ向から否定する作品であることを密かに期待している僕も、やはり残酷で無責任な観客なのであった。

*1:過激な論調も排しましたw