Devil's Own

cinema, music, book, trash and so on...

『行旅死亡人』


 ノンフィクション作家志望のフリーター・滝川ミサキは自分が重病で病院に搬送されたという不可解な連絡を受ける。見ず知らずの別人が自分の住民票を使い、滝川ミサキになりすましていたというのだ。ノンフィクションのネタになるかもしれないと勇んで病院へ向かうとそこにいたのは以前の勤務先の先輩であった。彼女の身の上を辿るミサキの旅は、名前を持たざる女の狂おしく陰惨な半生記へと連なっていく。傑作『ラザロ』をものにした井土紀州待望の新作は、日本ジャーナリスト専門学校が企画したインディペンデント映画。無名の俳優陣に加え、ロケーションはジャナ専の校内施設や学校のある高田馬場周辺を使用しているため、いやがおうにも学生映画のような佇まい*1であったが、舞台が都内から長野県小諸へと移動するにつれて、物語も禍々しい世界へと逸脱していく。
 井土の書くシナリオは実際に起こった犯罪に取材していることが多く、今回の物語も引き取り手のない身元不明死体=行旅死亡人についての新聞記事に着想を得ている。瀬々敬久との仕事『雷魚』と『汚れた女(マリア)』あたりはこうした作劇の顕著な例だろう。どちらもモチーフになった事件自体が興味深いが、井土は平凡なひとびとが犯罪者の領域へと踏み外していく過程を克明に描きこんでいく。こうした作風は松本清張の作品群も思わせるのだが、井土の脚本は大味な悲劇へと傾くことなく適度にスノビッシュである。真相を追うミサキが「素人探偵」であることにヒッチコックからの影響を指摘する見方もあるとおもうが、物語の推進力はもっと野次馬的な興味に依存しているのだ。「日本のクロード・シャブロル」というid:megutalkさんの指摘は言い得て妙ではないか。婚約指輪や胡桃のアクセサリーなどのアイテムを効果的に配置することで、陰惨で通俗的な犯罪記を、清張小説にもワイドショーにも傾きすぎることのない良質なメロドラマとして成立させている。最愛の夫に電話で別れを告げる場面での顔面クローズアップやラストに回想されるプロポーズ場面でのロングショットは本作の白眉だろう。
 ところで、この映画を見た後その足で犬童一心監督作『ゼロの焦点』を見に行ったのだ。ご存知のようにこの映画は松本清張のミステリーを原作とし、東宝電通が出資し「豪華」な俳優を配した大作であり、『行旅死亡人』とは比べ物にならないほどお金をかけた映画である。大金を注ぎ込んでいながら、どうやったらこんなにチープな映像が出来上がるのか呆気にとられてしまうような映画も多いが、『ゼロ〜』はかなり健闘しているのではないか。広末涼子は差し置くにしても、中谷美紀木村多江の演技がすばらしく、それなりに楽しめた。最新CG技術によって再現された昭和30年代の町並みも、これみよがしに前景化することなく舞台立てとしてフレーム内に収まっているのにも好感が持てる。ただ、この映画における広末、中谷、木村が抱える苦悩は現代の感覚からすると明らかに異質なものであり、見るものの心に深い爪痕を残すことなく、ただ「かつてあったこと」として網膜を通り過ぎていくのであった。この問題は単に清張の小説世界が時代遅れになったせいというわけではない気がする。犬童版のエンディングで、時代に翻弄された女たちが思い描いた「未来」として現代の光景が映し出されるのだが、これはあまりに楽天的すぎないか。人々を不意に犯罪へと駆り立てるどす暗い病理は現代社会にも、より陰湿なかたちで潜んでいるのだ。そのような「見てはいけないもの」が不意に引きずり出す力が映画にはある。井土はそれを活写して見せた。まぁ電通が出資した映画の中で社会的弱者の悲哀を描かれても興醒めなので、井土監督は今後もインディペンデントで映画を撮ってほしいとおもう。新宿近辺に住んでいる人は、この二本立ては結構お勧めです。

余白

 主人公の友人役を演じた阿久沢麗加がビッチっぽくてまじかわいい。
 パンフレットにシナリオが全文掲載されているのがいい。ジャナ専の講師で僕もたいへんお世話になった藤崎康氏が力のこもった批評を寄せています。

*1:無論まったく違ってはいるのだけれど。