Devil's Own

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『我が至上の愛 アストレとセラドン』


 エリック・ロメールの新作エロ過ぎる。いくら旺盛とはいえ、即物的な若者の性欲だけでは絶対に到達しえないであろうねっとりとした官能が、この映画には充満している。恋愛の、セックスの、酸いも甘いも知り尽くしたロメール御大の濃厚なエロスを見ろ、と言わんばかりだ。だが一方で、多くの人が「ロメール若い!」と言うように、80代の老人が撮ったとはとても思えない溌剌も確かにある。初めてのキスのような瑞々しさと倦怠期を越えたセックスのような奥深さが同居した堂々たる傑作。今日は1日だったので立て続けに二度も見てしまったよ。*1
 「エロチックな、あるいはむしろ、現代風に親密に略して言えばエロイ映画である」という山田宏一さんの批評がまさに的を射ており、「官能的」とか「エロチック」といった品のいいレトリックでは到底言い尽くせない露骨さと猥褻さがある。「エロい」よりも更に「現代風に親密に」言ってしまうなら、これはもう(´Д`;)ハアハアの域にまで達している。
 だからといって、決してポルノグラフィに傾かない。肉感的と芸術的の間にあるギリギリのラインをロメールは巧みに演出する。登場人物は全裸にならないが、片方の乳房だけが確実に現れるように設計された衣装が不意を衝く。太ももを露にして草むらに横たわるアストレ(ステファニー・クレイヤンクール)の肉体。その強度といったらない。そして、彼女の紛れもなくエロい肉体を芸術の域にまで引き立てるオーヴェルニュ地方の豊かな「緑色」に眩暈がする。無声映画を思わせるクレジットのタイトルバックに至るまで、「緑色」は映画全体を貫くテーマカラーとなっており、心地よい。
 さて物語に関して触れると、この映画についての批評で、ルビッチとホークスというコメディ映画の巨匠の名が頻繁に引かれていることは耳に入っていた。始めのほうは「まぁ、そうなのかなぁ…」と思いながら見ていたのだが、後半でセラドン(アンディー・ジル)が女装する段になって納得した。髭の成長がとまる薬だとか、声が低くなる病気などのハッタリ感覚や、着替えのときに女の子たちが入ってきたり、男に言い寄られたりといったお決まりのハプニングは勿論のこと、「一度した決心は変えません」というアストレの愛情溢れる言葉がセラドンにとっては絶望的な意味を帯びて響いてしまうというセリフ回しの妙も可笑しい。
 特筆すべきは、ギリシア彫刻を思わせるアンディー・ジルの現実離れした美しさであり、彼のルックスのお陰で荒唐無稽なストーリーも十分に説得力を持って見えるから驚きだ。腕毛生えてるとか顎割れすぎでしょとか細かいツッコミは野暮というものだろう。そんな彼の中性的な美貌も相まって、物語ラストのラヴシーンは、半ばレズビアンのそれのような倒錯的なエロティシズムを醸し出す。ふたりの「女」の欲情が徐々に高まっていく様子をカメラはワンカットで見つめ続ける。むせ返るようなセックスの期待に感情を昂ぶらせる恋人たち。その心臓音と体温を瞬きもせずにとらえようとするロメールの眼差しは、『モンソーのパン屋の娘』のときから何ら変わりない。こんなにくすぐったいラストがあっただろうか。
 冒頭で示されるのだが、この映画は故人であり映画監督でもあったピエール・ズッカに捧げられている。そもそも、原作の『アストレ』はズッカが映画化しようと試みたのだがコストなどの問題で企画を断念せざるをえなかったらしい。ただ、今回の映画化にあたってロメールはズッカの遺したシナリオを殆ど活用しなかった。後で読み比べると、二人のシナリオに共通するセリフはたったの一つだけだったという。そのセリフは一体なんだったのだろう。そうした想像を手がかりとして、ズッカが作ったかもしれないもうひとつの『アストレとセラドン』を想像するのも、楽しい。

*1:パンフも買ったお陰で帰宅したときの所持金は60円だったが。