Devil's Own

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『ラビット・ホール』(ジョン・キャメロン・ミッチェル)

"Rabbit Hole"2010/US

 ニコール・キッドマン製作、主演。事故で子どもを失った夫婦をキッドマンとアーロン・エッカートが演じている。関東での公開時、空中キャンプの伊藤聡(id:zoot32)さんが「『レボリューショナリー・ロード』や『ブルーバレンタイン』と合わせて「夫婦リアリティーもの三部作」と呼びたい」と書かれていて、どちらも見る者の精神をずたぼろにするたぐいの映画なので多少身構えて見たが、最終的には希望(のようなもの)を見せてくれたのでよかったとおもう。というか最後はぼろ泣きしてしまいました。
 主役となる夫婦だけではなく大切な人を亡くして喪失感にあえぐ人々が劇中にはたくさん登場する。なかでも同じように子どもを亡くした夫婦が集まる会はすごい。アメリカ映画にはこういう自己啓発系の集会がしばしば登場するがああいうのは日本にもあるのだろうか。悲しみにとらわれた人々はそれぞれに救済を求めて引き寄せられるが、結局は互いを理解しあうことがないまま傷つけあってしまう。キッドマン演じるベッカは自分の悲しみが他人と共有されることにことのほか拒絶感を示す。夫婦の間ですら悲しみに隔たりがある。周囲の人々の親切心や気遣いのすべてが神経に障りベッカはますます孤独を深めていく。自然光を生かしたやわらかい照明を基調としているが、そこに描き出される亀裂は生々しい。
 この物語は悲しみを共有することの不可能性を描いているとおもう。悲しみには正解がなく、質や量をはかることもできない。悲しみとの付き合い方も人それぞれだし、悲しみを取り除く速度にも個人差がある。真心や愛は悲しみを癒してくれない。悲しみを癒すのはやはり残酷な時の流れだけなんですよ。冷たい物言いにかもしれないが、私はこうした悲しみの描き方に誠実さを感じた。
 夫婦間の問題というよりもっと普遍的な心理としての悲しみを描いているとおもう。同じく残されてしまった家族を描いた傑作に『レイチェルの結婚』があったが、私がまっさきに思い出したのは意外にも『Super8』だった。あれだけ多くの命を奪ったエイリアンに主人公の少年がかなり唐突に共感し、涙を流しながら見送るという『Super8』のラストに疑問を呈する人が多かった。自分の子どもの命を奪った高校生と心を通わせ、彼の「物語」に救いを求めるベッカの行動も一見常軌を逸している。でも多くの場合、人間って周囲の思惑とはまったく関係ないところで、ひとりで勝手に救われるものなんじゃないかなあ。むしろ悲しみや痛みを他人が理解して救おうという考えのほうが思い上がりだとおもう。この作品でも「あなたの悲しみを減らしたい」と毎日訪問してきた友人にうんざりしたという母親のエピソードが語られるように、他人を悲しみから救い出すことはできない。自力で救われるしかないんですよね。
 ベッカはパラレルワールドをテーマにジョンソンが描いたコミックを読み、今も子どもが生きている幸せな世界があることを空想する。これが創作物というところがポイントだとおもう。「主人公の父親はあなたの父親をモデルにしているの?」という質問をジョンソンに否定されて意外そうな顔をするベッカが印象的だ。その後ベッカは、友人や家族と幸せそうに笑いあうジョンソンを遠巻きに見つめながらついに号泣してしまう。自分が思いを馳せた「幸せな別世界」がどうしようもないくらいに届かない場所にあると理解してしまった。ラビット・ホールはふさがれてしまった。でもあそこでベッカは、やはり勝手に救われたんじゃないかとおもう。ラストシーンは、相も変わらず悲しみを持て余すしかない残された者たちへのやさしく強かな眼差しにあふれているのだった。