Devil's Own

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「サイコ2割」事件を事件とすることについての是非

 学校へ行く途中元カノと出会って、久々に話をした。彼女とは、別れた後の関係が本当に最悪で、喧嘩別れのようになっていたのだ。彼女のほうが一学年上だったので、就職だの卒論だの、今の彼氏がカッコいいという話をされてちょっと引いたが、それでも素直に喜ばしい気持ちになった。うん、今日はいい日でしたね。いつもアヴァンギャルドな自分スキー志茂代表のお友達が縦ストライプのワイシャツにタイトなパンツをはいて「今日はベースボールベアーを意識したよ」と言っていたのに爆笑した。
 話は変わって、東大での青山真治監督の講義でヒッチコックの「サイコ」を見た生徒がたった2割しかいなかったという「事件」についてがるぼるさんが結構前に書いていたのだが、色々なところでの反応も見たし、僕自身も色々と考えた。この出来事を「事件」呼ぶことに拒絶や嫌悪を抱いている人もいるようで、少なからず抵抗がある人の気持ちも何となくわからなくもない。恐らくこの嫌悪感は、「『サイコ』を見たことがある層」に、ある種優越的なスタンスが存在していて、「サイコ」を見た/見てないという事実を他者との差異化の物差しと化していて、ある種の優越的感覚が透けて見えてしまうことに起因しているのではないかと思う。他者との差異化による自身のアイデンティファイは、高校生サブカル層なんかによく見られる傾向で、*1多分はてなに住んでいる人も経験としてあると思う。「え?みんな「サイコ」見てないの?うっそー」と解っているのに呟いちゃうみたいな。ただ、がるぼるさんの「サイコ2割事件」に対する考え方が、そういった小さい物差しでないことも明白で、コメント欄などでの丁寧な応対を見るとわかるがやはりこの人の真摯な配給精神を感じずにはいらない。しんどいだろうに本当によくやるよとも思う(笑)大好きだ。
 ただし、留意すべき点はあらゆる文化の中で特に映画というものは、多くの場合、時間的・金銭的余裕に加え、「東京」という地域性をその享受の条件として潜在的に持っている。特に地域に関する条件は見落としがちな点で、東京からの距離が、そのまま情報からの距離という地域格差が厳然としてある。僕は長崎という片田舎から東京にやってきた人間だからこの事実だけはちゃんと述べておきたい。
 もしこの事件の例となる作品が「サイコ」ではなくて、例えばゴダールとか小津の映画とかで、それを見ていない人が少ないことを事件だ事件だと騒いでいたら、僕だって嫌悪感を催したに違いない。長崎では大きなレンタルショップにもゴダール映画はあまり置いていなかったし、小津はまだ少しあるにしても、溝口なんかは一本も置いていなかった。そういった映画に対するインフラ格差は確かに存在している。その限りにおいて、見た/見てないによる事件性の言説は、本当は映画なんてどうでもいいと思っている唾棄すべきなんちゃってインテリ層のニヒリスティックな自己優越化傾向でしかないだろう。ただ「サイコ」なら、話は別で、この映画は田舎の小さなレンタルショップにも置いているし、誰にでもアクセスすることができる。これを、映画を見る/見ないなんて個人が決めることなんだから別に沢山の人が見てなくてもいいでしょうと済ましてしまうと、それこそ映画という財産が、「知識」としてごく少数の、ここで言う「2割」の人々に囲い込まれてしまう。これは、本当に残念なことだし、「無意味な焼き直し」と揶揄されながらもひたすら泥臭くオリジナルの模倣に徹そうとしたサントのアティチュードも、恐らく「サイコ」という作品を多くの人に開放したいという考えから来ているのだと思う。
 啓蒙とか教育については僕はよくわからないのですが、それでも「サイコ」はいろんな人に見て欲しいし、色んな人と「サイコ」の話をしたいと素直に思う。というだけの戯言でした。

*1:僕がサブカルというコトバに少なからず抵抗があるのも多分この辺の差異化への違和感が理由だと思う。