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マノエル・ド・オリヴェイラ「神曲」

神曲 [DVD]

神曲 [DVD]

 映画の授業でマノエル・ド・オリヴェイラの「神曲」を見せてもらっているのだが、これがもうとんでもない傑作で、この作品に比べてば現在劇場では映画などかかっていないに等しいのではないかと思えてしまう。*1
 オリヴェイラは精神病院という舞台設定を用いることで様々な神話、古典文学における登場人物を共存させることに成功した。アダムとイヴ、イエス・キリスト、ラザロ、ラスコーニコフとソーネチカ、アリョーシャ及びイワン・カラマーゾフ、敬虔なキリスト論者である「預言者」とニーチェ主義的ニヒリスト「哲学者」が入り乱れ、壮大な文学コラージュのような群像劇が展開する。
 冒頭のシークエンスで、全裸のアダムとイヴが禁断の果実を食すエデンでの一幕が再現され、その美しさに目を奪われる。食卓では自らをキリストと信じる男が最後の晩餐を演じ、神の存在を巡って議論を交わす「預言者」と「哲学者」*2の姿は、「魔の山」でのセテムブリーニとナフタを連想させる。同時に「罪と罰」のキャラクターであり、この映画にも登場するソーネチカとラスコーニコフの関係性のアナロジーともなっており実に興味深い。
 ラスコーニコフは、老婆二人を殺害する。この場面の処理も素晴らしい。一人目は、窓際で斧をを振り下ろしいともあっさりと殺害する様子がサイドショットから実に自然に描かれ、二人目は広角レンズを用いることで多分に劇化した手法で描写される。ラスコーニコフにとって二つの犯行が全く別の種類のものであることを表現する秀逸な演出だ。舞台はあくまで精神病院であり、この老婆殺害シーンもラスコーニコフ(と自らを思い込んでる患者)の夢か妄想であるはずなのだが、そういった言及や示唆が具体的に行われるわけではない。しかし、美しい映像と素晴らしいカメラワークがそんな瑣末なことなどどうでもいいと思わせてくれるから不思議だ。殆どのシーンがフィクスであるが、ロングショットとクローズアップの巧みな使い分けとカット割りの応酬で緊張感が途切れることは一切ない。そして本作最初のハイライトは、ラスコーニコフに向けてソーニアが福音書におけるラザロ復活のくだりを朗読する場面であり、ソーネチカの朗読に合わせてラザロ復活を演じる複数の登場人物たちの姿を同時進行で捉えるシークエンスは圧巻の一言で、もう涙を流すほかなかった。そうやって大興奮したのが先週のことで、今回は中盤を見せてもらったが、今度はイワン・カラマーゾフがバイクで登場し(!)アリョーシャに向けて「大審問官」語り聞かせるあのシーンが再現されるのだから、もう勘弁してといく感じだ。
 ところで、僕はあの3兄弟の中で次男のイワン・カラマーゾフが一番好きだ。罪のない子供達を残酷な運命に晒さなくては勝ち取ることのできない正義など俺は信じない。「大審問官」を語り聞かせる導入としてアリョーシャに語る彼の言葉に僕は何度も打ち震え、心を動かされた。この映画でも、勿論同じことを言っているが、なんともカッコよく痺れる。この映画の素晴らしいところは、弟に自らの考えを理解してもらえず失望するイワン・カラマーゾフに、アリョーシャが接吻するというくだりが付け加えられているという場面である。まるで大審問官のラストのようにだ。「ずるいぞ」アリョーシャを優しく非難しつつイワンはこう続ける、「接吻は愛の証だ。忘れるな」。そしてそれを見ていた院内の一行が、お互いに温かくキスをかわす。なんともピースフルな一幕へと帰結するのだ。素晴らしい。更に注目すべきは、「大審問官」を聞いた恐らくこの映画の中では唯一の「常識人」であり、映画を観ている僕たちをリプレゼントする存在である院長が、「大審問官」やその導入について現代的な解釈を述べるところである。ドストエフスキーの述べるようにキリスト的ドグマは美徳だったのか。人々を救う「正義」の実践であるはずの「宗教」という不可思議な社会装置、唯一無二であるはずなのに複数存在している「神」、その内実には多くの闘争とジェノサイドに彩られた血塗られた歴史があり、対立する複数の「神々」は、等しく旧約聖書という親を持つ兄弟であるという皮肉な指摘。イワンは院長をペシミストと呼び、院長もそれを否定しない。このシークエンスに込

*1:それでも1日は漸く重い腰を上げて色々見ようかと思っているが。

*2:この場面における「哲学者」の台詞の中にもニーチェアフォリズムが次々と引用される。