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「女は女である」なんて嘘っぱち―川上未映子「乳と卵」

遅ればせながら新芥川賞受賞作、川上未映子「乳と卵」を読んだ。「文学界」12月号掲載分。

乳と卵

乳と卵

 川上未映子、いかにも「芥川賞出身女性作家」といった美少女系風貌*1に加え、シンガーソングライターも兼業しているというありそうでなかったトピックも相まって申し分ないアイコン作家といった感じだ。僕としてみれば、もう金原ひとみのような世の中なめ腐ったようなヴィジュアルの女性作家はやはり文壇にはあらわれないのかという一抹の寂しさもあって*2、歌手もやっちゃってますという器用さもむしろ苦手とするところであり完璧にネガティヴな偏見しかなかった。前回の候補作「わたくし率イン歯ー、または世界」も読むには読んだが、これといった深い印象も受けずに流していた状態だった。
 「乳と卵」は、読み始めてすぐに「あー、まただよ」と感じてしまった。意図的な散漫さ、というべきか、イメージが連鎖し意図が脱線する思考過程をそのままなぞって描写していく息の長い文章は、昨今よく見かけるレトリックで、ブログ調とでもいうべきか、とにもかくにも僕の苦手とする語り口で、その時点で完全にこの作品、というか川上未映子に対する僕の評価は決定的なものになった、ように思えた。が、そういう無責任で傲慢な態度で読み進めていたにも関わらず、読ませる。というか、もう中盤になると「面白い」と素直に思ってしまっていて、ちょっと意表を衝かれた。
 選考委員の何人かも指摘している通り、息の長い語り口を読みやすいものにしているのは間違いなく巧みに織り交ぜられた関西弁だ。ポイントは本文の全編が関西弁で書かれているわけではないというところで、随所随所にギミックとして用いることで読者は自然と本文を関西弁のアクセントで読み進められるように工夫されている。関西調のアクセントに変換されることで、独自のリズムを持ってくるという仕組みだ。そういう意味で、「乳と卵」は読み手に発音されて初めて効果的に機能する作品というべきかもしてない。小説に音符がついているとでも言える。そこまで書いてしまうと、川上未映子の「歌手」としての横顔に安直に結び付けたい誘惑に駆られてしまうが。
 内容について言及すれば、語り手である「わたし」のもとへ姉の巻子が娘の緑子を連れて上京、女だらけの二泊三日の様子に緑子の個人的手記を時折挿入するという構成になっている。目的は巻子の豊胸手術であり、自らの貧相な乳房に強迫観念的なコンプレックスを持っている。小学生の娘の緑子は、そういった巻子の行動に関係しているか、他者と口をきくことをを拒絶しており、ノートとペンによる筆談を唯一のコミュニケーションとしていて、簡潔に読み解けばそういった厄介者の母娘のコミュニケーション不在と再生がストーリーの主軸だ。
タイトルに冠した「乳」と「卵」は「女性であること」の社会的、生物学的宿命を背負うキーワードだ。若い頃から自らの乳房に不満があり、そのわずかな乳でさえも娘に与えることで奪われてしまったという根拠のない妄念にとり付かれ、豊満な胸を得ることが自分の若さを取り戻す方法だと言わんばかりに豊胸手術固執する巻子。そんな母親を蔑みと哀れみの入り混じった感情で見つめ、自分の体内にも確実に存在している「産む女性」としての「卵」に違和感と拒絶の意を隠せない緑子。二人の言動は一見相反しているように見えるが、その苦悶の根本には「女であること」の苦しみがある。本編中でも言及されるが、豊胸手術は、化粧は、女性が自らを美しく見せようとするあらゆる行為は果たして男性主義に根ざしたものなのか?そんなわけはない。だったらなぜ女性であることはこんなに面倒くさくて、苦痛なのか?愚劣な男子には一生かけても理解できそうにない課題がこの作品のテーマだ。
 だからと言って、男子であるが故に僕がこの作品へのアプローチを放棄するのは一番卑怯で最低だと思う。この作品を「乳」と「卵」を象徴的に捉えて、「女性」であることの苦悩と哀切、それを強いる社会*3へのレジスタンスと説明するのはいささか心地よくない、と感じる。フロイトっぽいしね。作品の根底にはむしろ、「女である」とか「男である」という事実をアイデンティファイしているものは、「私」(自我)ではなく、「私」を入れた「容れ物」(身体)であって、そんなものは本来「私」には関係ないものなのだという意識があるように思う。だからこの作品を評して「女性ウケがよさそう」とする言説は適切ではないと思うし、作品を表層的にしか理解できていない。この作品の本質は「女であること」の苦悩というよりも、たかが「容れ物」であるのに、一生「私」を束縛し、様々な生物的・社会的役割を決定付けているこの身体の不可解さ、滑稽さの描写にある。作者が女性である身体を「容れ物」として理解している記述は随所に見られるし、ラストでもダメ押し的に表現される重要な考え方だ。
 安直な女性賛歌でもフェミニズム論争の産物でもない。女性であるという事実をデカルト的二元論から読み解き、その滑稽さをニヒリスティックに、愛情を持って描き出す。クライマックスにおける卵合戦は、「卵の破壊」=「女性であることからの逸脱」ともっともらしく説明をつけることもできるが、それも野暮というものだろう。だってなんつうかパーティーだからね、あの場面は。「パーティーはフラストレーション発散のための云々」とか理由付けされてもさ白けるでしょう?僕はそういう寒いエントリは書きたくないわけだ。

*1:偏見

*2:別に金原ひとみの作品群は全然好きではないが。

*3:産む機械」とかいう言葉など