祝再発!椎名林檎ラストアルバム「加爾基 精液 栗ノ花」とは何だったのか?
- アーティスト: 椎名林檎
- 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
- 発売日: 2008/07/02
- メディア: CD
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このアルバムは本当に呪われている。「無罪モラトリアム」や「勝訴ストリップ」はそのうち誰かが作ったであろう必然的なアルバムだったと思うが、このアルバムは日本人にしか、女性にしか、そして椎名林檎にしか作れなかった唯一無二のアルバムなのだ。大学で社会学とか専攻している女の子によく、「椎名林檎好き♪丸ノ内サディスティック知ってる?あれ超好き♪」*1とおっしゃる方々がいるが*2、彼女たちにこのアルバムの話を振ると、十中八九表情が曇る。「あー、あれはちょっと違うよね」みたいな。いやいや、これこそ本当の椎名林檎だったと思うよ。「無罪」なんて厨房の音楽だ。今こそこの邪悪な傑作を聴こうじゃないか!このアルバムを通して聞くには大変労力がいる。今日のような禍々しい曇り空で、なおかつ精神状態がフラットなときにしか聞くことができない。リリースして5年経った今日でも、この作品の全貌を摑めた気になれないのはそのせいかもしれない。リアルタイムで聴いた当初、本作への印象は「新宿系自作自演屋」というコンセプトが肥大化、暴走、そして瓦解してしまったメガロマニアックアルバムといったものだった。しかし、5年経って思うにこのアルバムこそが椎名林檎の素顔だったのではないかと感じる。それまでの「新宿系自作自演屋」という武装を解き、ひとりのニンゲンとして醜いエゴイズムをぶちまけた作品だったのではないだろうか。僕らの世代にとって、椎名林檎はアイドルでありセックスシンボルだった。人前に出たときの赤面症をペンネームに冠するほど他者の視線に過敏だった彼女にとって、「自作自演屋」というペルソナは自己と他者をコミットするための処世術だったのだ。妊娠・出産と言うパーソナルな出来事と何年かの沈黙を経て再び僕らの前にカムバックしたとき、彼女が提示したものは彼女のすべてだったのだ。もう何も隠さないと言わんばかりにありったけの「ワタシ」をぶつけてきた。その膨大な情報量。音とメロディーと言葉の洪水。だからこのアルバムを聴いたとき、僕たちは、目の前で腹を掻っ捌いてはらわたを見せつけられたような甘美なエロティシズムと恐怖を同時に喚起される。そしてその姿がどんなに醜く恐ろしくても、それは紛れもなく100パーセント僕らが愛した椎名林檎だったのだ。不特定多数の「他者」に対して自己のすべてをぶつけることの壮絶さに震える。アルバムラストに収められた「葬列」の凄まじさは筆舌尽くしがたい。「白紙に返す予定です」というところで毎回鳥肌が立つ。まるで、捨てた恋人の遺書を読まされたかのような、この世とあの世の境界が溶け出して何かが這い出してくるような、黒沢清の傑作「叫」で真っ赤なドレスを纏った葉月里緒菜が不意にフレームに侵入してきたときのような、ごろりとした異物感に戦慄するだろう。そしてその後、あらゆる楽器を配したアンサンブルが洪水のように溢れ返り、そして唐突に消えてしまう。音は止まって、椎名林檎が死んだ。
その後、黒子以外殆ど外見が同じ似たような人が椎名林檎と名乗って活動しているが、あれは幽霊であることは言うまでもない。