Devil's Own

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腐敗する『ストロベリーショートケイクス』

ストロベリーショートケイクス [DVD]

ストロベリーショートケイクス [DVD]

 昨夜CSで放映していた矢崎仁司監督の『ストロベリーショートケイクス』を何となく見ていた。ちゃんとした感想を書く機会がなかったが、公開時に劇場で二度観たしDVDも持っている。大層な惚れこみようだと思われるだろうが、この映画を愛するのと同時に激しく嫌悪もしている、ということは述べておきたい。映画そのものではなく映画の中で立ち回る登場人物に、といった方が正確かもしれない。久しぶりに見たが映画に対する拒絶反応は薄まるどころか更に切実になってきて正直見るのが辛かった。もしも公開が現在だったら、この映画に対する評価はかなり違っていたかもしれない。
 4人の女性が生活している。摂食障害イラストレーター塔子(魚喃キリコ)と彼女のルームメイトで結婚願望が強いOLちひろ(中越典子)。貯金をしてマンションを買って、動けなくなったら潔く自殺するという辛辣で現実的な将来設計を掲げるデリヘル嬢秋代(中村優子)と彼女の店で電話番をする他力本願な女の子里子(池脇千鶴)。<塔子・ちひろ>と<秋代・里子>の世界はそれぞれ独立しており、殆ど干渉しない。見ていると多くの人が、<塔子・ちひろ>のドラマに強い嫌悪を覚えるだろう。塔子とちひろはそれぞれ「メンヘラ」と「スイーツ(笑)」のステレオタイプを過剰なまでに体現している。過剰摂食と嘔吐を繰り返しキャンバスの片隅に「死ね」とか「吐きたい」といったネガティブな言葉を書き散らす塔子。誕生日には自分へのプレゼントを購入し雑誌の星占いや風水記事に振り回されるちひろ。同時代の女性像をカリカチュアする試みだったのかもしれないが、それにしても紋切り型の印象は免れない。この映画の公開は「スイーツ(笑)」という単語が広まり始めたのとほぼ同時期だったように記憶しているが、その後こうした「イタい女性像」が急速に浸透し一般化したのは周知の通り。当初からステレオタイプ化されていた彼女らのキャラクター造形も当然の如く風化し、陳腐なものとなる。端的に言えば寒いんです。あまりに偽悪的ゆえに矢崎はこうした演出をかなり確信犯的にやっているのではないだろうか。どちらにせよ相当な悪趣味だが、そうした資質を試すには彼の次作を待つほかない。なんにせよ向こう数年はこの映画をキャラクター造形を拙劣なものであると断定する傾向が強まるだろう。だが更に20年もすればまったく別の見方と評価を得るかもしれない。そうしたときに注目されるのは、ちひろの日記を盗み読みながら自慰に耽る塔子や寂しさを紛らわすために寝た男友達に顔射されるちひろ、片思いの友人菊池(安藤政信)に逢いたいがために「実家から届いた野菜」をスーパーマーケットで購入する秋代、家に帰るなり靴も脱がずにトイレへ駆け込みドアを開け放って用を足す里子といった女子たちの醜く無惨な日常を捉えようとする冷徹な視座かもしれない。あるいは関わりないふたつの世界でそれぞれ飼われているペット(ハムスターと淡水魚)が死んでいくさまを映し出すときの淡白で静謐な手つきかもしれない。安藤政信の手が肩にかけられたとき、中村優子が視線だけで語る感情の豊かさはいつ見ても胸が締め付けられるし、その後のベッドシーンで男を受け入れる彼女は娼婦だけが持ちうる聖性を帯びている。降りしきる雨をしげしげと見つめながら「こんな雨見ながらエッチしたいな」と<侘び寂び>を呟く池脇千鶴のアンニュイな佇まいもいい。醜悪さを醜悪なままさらけだし、劇中の新幹線と同じく半強制的に突き進んでいく<塔子・ちひろ>の物語。後半に行くに従って母性や死といった抽象的なイメージを色濃くする<秋代・里子>の物語。並走するふたつの物語は終盤に同じ砂浜へと引き寄せられる。塔子とちひろは「東京で流した涙を海に流す」とか「その涙で絵の具溶かせてよ」とか相変わらずイタい遊戯に興じている。一方で秋代は里子がお守りとして持っていた石<神様>を海に放り投げ「神様なんて要らないよ」、とロマネスクへ別れを告げる。そうしてふたつの物語は、塔子の画*1を介して、ついには主人公4人の姿を同一フレームに収めることのないまま海に溶け合っていく。というわけでこの凡庸な映画を祝福する。呑気に共感する女性とはお付き合いしたくないとも言っておく。

*1:そしてこの画は<秋代・里子>の世界から来たトマトを色彩のモチーフとして内包している