Devil's Own

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『チェンジリング』−カメラはおろち


 語りえぬものについては、沈黙しなければならないというウィトゲンシュタインの警句をまっとうするような形で、イーストウッドの映画については、いつも何も言えずにただひたすら沈黙に身を投じるしかないという気がしている。実際、考えてみるとこのブログでイーストウッドの作品については書いたことがない。『チェンジリング』も、例のごとく傑作然とした意匠をまとっており、実際素晴らしいのだが、彼の錚々たるキャリアの中に置いて、相対的に見るならば早撮りで無駄なく仕上げた佳品といった印象もある。
 ファーストショット、カメラは地上から少しだけ離れた高みをゆるやかに滑空しつつ、1928年、ロサンジェルスの住宅街に降り立つ。神とまで言うと少し大げさだが、ある種超越的で冷酷な眼差しが、ひとりの凡庸な女の日常に、魅入られたように忍び込み、映画は幕を開ける。
 女・クリスティン(アンジェリーナ・ジョリー)は9才の息子・ウォルターと暮らすシングルマザー。起床して、息子にシリアルを食べさせ、一緒にバスに乗りこむ。学校前で下車する息子を見送って、職場へ向かう。数人の電話交換手の仕事を取り仕切るチーフとしての役割をスマートにこなし、その仕事ぶりは上司にも評価されている。仕事を終えると息子を迎えに行き、仲良く帰路につく。休日にはふたりでチャップリンの新作を見る約束だ。不必要な干渉をゆるさないカメラの眼差しは、彼女の満ち足りた生活をひたすらに観察するが、われわれは、彼女の日常がこれから過酷な「非日常」へと晒されることを予想せずにおれない。それほどまでに、この映画は自身が「映画」であることを意識させる。そんな不吉な予感を見るものによぎらせる要因は、イーストウッド自身によるメランコリックなスコアのせいかもしれないし、怪奇映画を連発していた頃のユニバーサル・スタジオ最初期のロゴマークかもしれない。脱色されたように青みがかったモノトーン調の画面かもしれない*1。当時のロサンジェルスの風景を再現したというよりも、往年のハリウッド映画で見られるスタジオセットを蘇生させたかのような街並みの、ノスタルジックな(あるいはアナクロニスティックな)密室感かもしれない。
 予想どおりというべきか、息子ウォルターの失踪を皮切りに、クリスティンは多くの過酷な試練におそわれる。腐敗した市警察は、市民の批判を免れたい思惑で、偽のウォルターをでっち上げ、正しい主張を繰り返すクリスティンを「異常」として病院に監禁してしまう。黒ずんだ壁や扉、冷淡な職員たち、落ち着きのない患者たちなど、非日常空間を過剰さを排した演出で、映画的リアリティーを体現させるイーストウッドの手つきが素晴らしい。*2クリスティンは戦う。権力という透明な壁に向かって、寡黙に、確かな信念を持って立ち向かう。黒沢清はクリスティンは黙って目の前の出来事に立ち会い続けると述べているのだが、僕に言わせれば、この映画でのアンジェリーナ・ジョリーは『ウォンテッド』*3よりも遥かに峻厳に、苛烈に戦っている。「なすすべもない」といった状況は確かにあるし、後半は、彼女が「警察叩き」のアイコンとしてスケープゴートされたかのような印象もある。がしかし、彼女はやはり一貫して積極的に出来事に立ち向かっているのだ。特に、監禁された病棟で知り合う反抗的な売春婦(エイミー・ライアン)に倣い、担当医師に「ファック・オフ」と叫んでから、クリスティンは「失うものが何もない」ことを自覚し、ひとりの戦士となる。戦う女=アンジェリーナ・ジョリーという素材は、ともすれば過剰で紋切り型なものになりかねないだろうが、イーストウッドの的確な演出によってその陥穽は見事にクリアされている。精神病棟の患者が解放される場面で、エイミー・ライアンアンジェリーナ・ジョリーが別れる場面は素晴らしい。ふたりは何も語らず、抱擁もせず、涙も流さずに、ただ視線を交わしながらすれ違うのだ。クリスティンが死刑囚を責め立て、平手打ちを食らわせるシーンは、彼女が最も激しい感情を発露させる場面だが、逆光気味の強いライティングが彼女の心情とがシンクロし、感情的になり過ぎないギリギリのサスペンスとして見事に設計されている。その後の絞首刑場面では、ふたたび無表情に近い平然さでアンジーを立ちあわせることで、さらに効果的に見えるのだ。
 多くの出来事を乗り切って、希望を見出したクリスティンは雑踏へと消えていく。その後姿を見送りながらカメラはまたゆっくりと上昇する。物語上で重要な鍵を握るサンフォード少年の顛末ついても言えることだが、登場人物が自らの物語に「ケリをつけ」たとき、カメラは静かに舞い上がる。ゆえにこの映画は、神に似た何者かが、興味を持った人物へふとした瞬間に寄り添い、一連の運命を見届けると、ぶっきらぼうに去っていく、そんな印象を残す。劇中、いくつかの重要なシーンで主観ショットとも思える移動撮影が散見されるが、その多くが時間軸や位置関係において微妙にずれており、完全には「主観」と一致しない。カメラは、視聴者は、登場人物と運命を共にはしない、あくまで冷酷な観察者でありつづけるのだった。

とりあえず、5月の新作『グラン・トリノ』が恐らくガチ。

*1:アンジェリーナ・ジョリーのどぎついルージュの口紅も印象的だ。

*2:こないだ見た愛のなんちゃらとは大違い!!

*3:どうでもいい映画だったけど。